忘れてはならない「留萌沖三船殉難事件」

ネット(5月8日)の朝日新聞(北海道版)で、小説「海わたる聲ー悲劇の樺太引揚げ船『泰東丸』命奪われた一七〇八名の叫び」(著者=中尾則幸、柏艫舎、1300円)の出版を知った。さっそく、書店で取り寄せたところ、地元の留萌市辺りでも「留萌沖三船殉難事件」(昭和二十年八月二十二日)のことは、相当風化しているという。そこで最初に、この事件の概要を作家・吉村昭の著書「七十五度目の長崎行き」(河出文庫)の中の一節、「『小笠原丸』の悲劇」(初出「中央公論」84・12)から紹介する。

〈鳥のむらがる浜〉

昭和四十六年の初夏、私は、初めて増毛町を訪れた。町の沖合で悲惨な事故があったという短い記録を眼にし、調査におもむいたのである。

その記述によると、終戦から五日後の昭和二十年八月二十日、ソ連軍の進攻をうけた樺太からの避難民を乗せた「小笠原丸」「第二新興丸」「泰東丸」の三隻が、国籍不明の潜水艦の雷撃と砲撃をうけ、「第二新興丸」が損傷をうけ他の二隻は撃沈されたという。死者は「小笠原丸」六百三十八名、「泰東丸」六百六十七名、「第二新興丸」約四百名と記されていた。「小笠原丸」の沈没位置は、増毛町の大別苅カムイエト岬東方約四海里の沖であった。

「小笠原丸」は、明治三十九年に建造された一、三九七総トンの逓信省所属の海底線布設船であった。終戦時、海底線修理のため稚内港に碇泊していたが、ソ連軍の攻撃がはじまった樺太の避難民救出の求めに応じて、終戦の翌々日である八月十七日夜、稚内を出港。宗谷海峡を横ぎって翌朝、樺太の大泊に入港して老幼婦女子約千五百名を乗せ、稚内へもどった。

さらに翠川信遠船長は、横浜へ回航するよう命じられていたが、独断で大泊へむかって避難民を乗せ、稚内へ帰港した。その中には、少年であった元横綱大鵬親方も家族とともに乗船していた。

小笠原丸は小樽へむかう予定であったが、約六百名の老幼婦女子たちが船で小樽へゆきたいと主張し、下船しない。やむを得ず船長は、かれらを乗せて出港した。

船は日本海を南下、増毛町沖にさしかかった時、雷撃をうけ、またたく間に沈没したのである。二十二日午前四時二十分頃であった。

その折のことについて、大別苅の食料品店主の母である櫛引キヨさんは、

「ヨンズ(四時)少し過ぎたったかね。ガチーンと沖の方から物凄い音がしたの」

と、当時を回想した。

撃沈された船から船員と避難民が辛うじてボートに乗り、大別苅の海岸にたどりついたが、その直後に思わぬ混乱がみられた。船員の一人が浜に出てきた老漁師に、小笠原丸の乗員で避難民をのせてきたが撃沈されたこと、沖の生存者を救けて欲しいことを口にした。船員は寒さで口がこわばり、さらに言葉が長崎生れの強い訛りであったので、漁師は、避難民を「シナ民」とききまちがえ、「小笠原島からきたシナ(中国)人」と錯覚した。

支那軍が上陸してきたということが口から口につたえられ、住民たちの避難さわぎが起った。やがて日本人であることが判明し、漁船が出された。が、竹筏にしがみつく十一名と伝馬船にまたがって半ば意識を失っていた少年を救出したにとどまった。

その後、増毛町から二十五隻の漁船が沖にむかい、六十二名を救けあげた。推定約六百名の避難民のほとんどは雨のため船底に入っていたので急激な沈没に逃げる余裕はなく、生存者はわずか十九名であった。

遺体収容がつづけられたが、それも五十六体のみで、他は船とともに海中に沈み、または潮に流されて遠く去ったのである。

その後、北海道の各地に遺体が漂着したという報告が寄せられ、身許確認がおこなわれた。町役場には、遺体発見の報告書が残されていて、その一文字一文字に、胸がしめつけられる思いであった。

一、本籍 住所、氏名不詳 女三歳位

二、人相 腐爛判明セズ

三、着衣 嬰児用腰巻一、附近二札幌市南一条東七丁目上松太一様方ト書キタル札アリ

四、時及場所 九月八日字坂ノ下海岸ニ漂着

大別苅にはウミネコ、烏が多く棲みつき、終戦の頃は、ことに烏がむらがっていたという。私は、小笠原丸の悲劇を大別苅を舞台に小説に書き、「烏の浜」と題した。この地を訪れるのは三度目で、烏の諦き声を耳にしながら浜に立った。海は明るく輝き、沖合を貨物船が南へむかって動いていた。

吉村昭のエッセーを最初に紹介したのは、事件の概要を確認するためだが、そのほかにも、綿密な取材に基づいた“記録文学"や歴史小説を多数残した大作家の魅力や、歴史を文学として定着させた筆力を知って欲しいからだ。

さて、冒頭の中尾氏の本書に戻ると、吉村昭のエッセーも日本国も、いまだに三船を攻撃したのは「国籍不明の潜水艦」としているが、本書では平成五年の旧ソ連国防省戦史研究所の資料から“ソ連潜水艦の攻撃"と断定している。さらに秦邦彦拓殖大学教授(当時)の調査で、ソ連太平洋艦隊所属の潜水艦二隻が留萌沖に展開、日本の輸送船への攻撃命令が出され、「小笠原丸」を旧ソ連潜水艦L-12号が、「第二新興丸」と「泰東丸」はL-19号が、それぞれ攻撃したことを明らかにした。

樺太では民間人の犠牲者はおよそ五千人、軍人は千七百人といわれるが正確には分かっていない。そのような悲惨な歴史の中で、改めて「留萌沖三船殉難事件」の経緯を時系列にしてみると、

①午前四時二十二分、海底ケーブル布設船「小笠原丸」(一三九七トン)増毛沖で沈没。死者・行方不明者約六四〇人。生存者六二人。

②午前五時三十分頃、海軍特設砲艦「第二新興丸」(二五〇〇トン)鬼鹿沖にて大破、自力にてようやく留萌港に避難。死者・行方不明者約四百人。生存者約三二〇〇人。

③午前九時四十六分、鬼鹿沖で貨物船「泰東丸」(八八七トン)沈没。死者・行方不明者約六七〇人。生存者一一三人。

ということになる。しかし、三隻の犠牲者は推定一七〇八人にものぼったが、当時の新聞のどこにも事件の記事が載っていない。また、大判の北海道道路地図(151ページ)を見ると、事件を今に伝える「三船遭難慰霊碑」の位置が示されていない。こんなことでは、地元でも事件が風化するのは当然のことだ。

そんな実態の中で、本書では沖縄県の「平和の礎」(115P)に触れている。その文面に触れた瞬間、吾輩は小平町鬼鹿付近の風景(12年前と昨年10月に立ち寄り)を思い出した。つまり、国道232号沿いの「花田家番屋」、その国道の筋向かいの「三船遭難慰霊之碑」、さらに北海道の名付け親の「松浦武四郎銅像」である。そのような立地であるならば、この地に北海道版「平和の礎」を設置すれば良いと考えたのだ。

どうですか、いまだに身元不明者が数百人存在し、この御霊を後世に伝えるには、この方法しか思いつかない。そのためには、クラウドソーシング(不特定多数の人々にオンラインで支援を呼びかけること)で寄付金を集めることも一つの方法と思う。だが、寄付集めでは、活動の趣旨や目的に賛同・共感できること、寄付金の使い道が明確で有効に使ってもらえる、という二つが最も重要という。そうであるならば、地元で信頼される人物が中心でなければ実現は難しい。

最後は、地元の有志に期待するとともに、留萌沖で命を落とした人々に合掌したい!