再々刊「アイヌ人物誌」を読了して

今月初めに紹介した再々刊「アイヌ人物誌」を読了した。一口で言うと、和人のアイヌ民族の妻や妾に対する強奪のために、アイヌ部落の多くが崩壊した話しと考える。つまり、この書物では99の話題を取り上げているが、その半分近くが和人によるアイヌ民族に対する非道行為の内容であるからだ。我が輩は、この書物を読むまで、そこまで酷いとは知らず、誠にお恥ずかしい限りと思っている。

その背景にあるとされるのが、蝦夷地の経営を請負う商人「場所請負人」や、漁業関係者の力量が大きくなり、アイヌ民族に対する非道行為がエスカレートしたことがある。これから紹介するアイヌ民族の人口経緯は、安政元年(1854年)の黒船来航により、再び蝦夷地が幕府の直轄となった時に調べた人口と、幕府が松前に返地した文政5年(1822年)の人口を比較する数字である。

○厚岸=八百四人→二百十七人

根室=八百九十一人→五百八十人

国後島=三百四十七人→九十九人

択捉島=二千人(寛政〈1789〜1801〉)→千三百二十六人→四百三十九十人

○斜里・網走=二千余人(寛政)→千三百二十六人→七百十三人

○島牧=二百人(天明〈1781〜88〉)→百二十八人(文政5年)

○夕張=八百六十八人(文化〈1804〜17〉)→七十二人

長万部=五百余人(文化)→三百七、八十人

石狩川下流=三千二百人(寛政)→千二百〜三百人(文政)

沙流川流域=千七、八百人(文化)→千三百人

○留萌=四百七十二人→二百十余人

紋別区域(幌内、沢木、渚滑、沙留、紋別、トウフツ、湧別、常呂)=三千人(安永〈1772〜81〉)→千百三十六人→六百七十三人(安政4年)

さらに、上記以外の安政元年の居住人口を紹介すると、渚滑=百六人、室蘭=約二百四十人、常呂川流域=計十八軒、白糠=三百余人、釧路=三百人、三石=二百二十一人、浦河=五百六十人、宗谷=八百余人、千歳川流域=二百余人、静内=八百三十三人、新冠=四百十人である。どうですか、急速な人口減少と思いませんか。また、現在の日高管内オホーツク管内の人口の多さに驚きませんか。

次に、アイヌ民族の人口減少の原因・実態について、多少具体的に書かれている部分があるので紹介する。

ーおよそ、この蝦夷地においては、番人などがアイヌの妻を強奪したり、また年ごろになった娘があれば妾としたりして、適齢の青年が独身でいても、よくよくのことがなければ結婚させないのが土地のならわしのようになっている。ー(106P)

ー釧路場所においては、41人の番人中、36人までがアイヌの女性を強奪して妾とし、その夫たちを仙鳳跡や厚岸の漁場に労役に行かせるのが普通となっている。ー(258P)

以上のような実態のためか、幕府は一時松前藩から蝦夷地を取り上げたことがある。その背景を武四郎はアイヌの発した言葉として書いている。

「私どもが、父や祖父から聞いていたところでは、昔、霧多布にロシア船が来航、また択捉、国後などのアイヌに物を与えて手なずけたところ、最上徳内近藤重蔵などというお武家さまが来られて『このようにロシア人が多く来るようでは、蝦夷地を松前藩などに任せておくのはよろしくない』と言っておられました。すると5、6年もして、幕府ご直轄になったということであります。」(285P)

以上のような歴史を知ると、アイヌ民族にとっての19世紀前半は、最も悲惨な時代と言えるのかもしれない。そのような時代であったが、武四郎は、どんどんアイヌ民族の懐に飛び込んだことを、訳した更科源蔵は序文で書いている。

「この松浦氏は、アイヌのすぐれた行動を耳にするやいなや、道の険難をも顧みず、ただちにその人を尋ねあてて詳しく話を聞き、これを記録してきた。それが長い間に書物とするほどになったのが、この『蝦夷人物誌』である。」

武四郎の行動は、アイヌ民族に対する“心の安らぎ"と言えるのではないか。その意味では、武四郎が蝦夷地に赴いたことは、後世の我々に多大な宝物を残してくれた。

それにしても、重ねて書くが、和人の「場所請負人」、そして駐在の役人及び番人は、誠に恥ずかしい行為をしたものだ。あらゆる地域のアイヌ民族を石狩や宗谷の漁場に労働力として送り出し、地元に残ったアイヌの妻や妾を強奪し、また少女たちも思春期となれば犯していたというのだから…。その意味では、白老町に開設するアイヌ民族の国立施設「民族共生象徴空間」の開業(2020年4月)が非常に待たれる。と同時に、アイヌ民族の北方地域に対する重要性が深まることを、切に願うだけである。そして、紹介した新刊「アイヌ人物誌」が再々刊されたことを感謝したい。