遠軽高校校歌の作曲家・大中寅二とキリスト教

読売新聞は、7月5日から8月9日までの間、連載企画「時代の証言者」(25回)で、「サッちゃん」という名曲を作曲した大中恩(めぐみ、93歳)を取り上げた。この連載記事に注目したのは、恩氏の父親が遠軽高校の校歌(昭和27年1月30日制定)の作曲家・大中寅二であるからだ。そして、遠軽町キリスト教は、切り離すことが出来ない地域であることを理解した。

それでは、恩氏が語った大中寅二の人物像を紹介します。

○僕の名前は「めぐみ」と読みます。熱心なクリスチャンだった父母が、「この方(キリスト)は恵みと真理とに満ち」との聖書の一節から名付けました。おやじの大中寅二は、多くの人に愛唱された「椰子の実」を戦前に作曲し、名をはせました。

○僕の父母は東京・赤坂の霊南坂教会を仕事場としていました。父の寅二はオルガン奏者、母の文子は教会付属の霊南坂幼稚園教諭。《霊南坂教会は明治初期に創立された。教会堂は大正時代の名建築とされたが、1985(昭和60年)に建て替えられた》

○おやじは1896年(明治29年)に東京で生まれました。大阪に越した後、教会の日曜学校に通っていました。そこでは、四つ年の離れた姉の京がオルガン奏者を務めていて、まぶしく映ったようです。ところが、京が何かの都合で、オルガン奏者をおりることになり、おやじに出番が回ってきた。オルガンを自由に弾けるようになり、すっかり音楽の魅力にとりつかれたようです。いったんは両親の希望通りに同志社大経済学部に進んだものの、グリークラブに入り、音楽家になると言い出して。当然、家族は猛反対。でも信念は固く、当時の音楽界の巨匠、山田耕筰を訪ね、弟子入りしました。《山田耕筰(1865〜1965年)は、日本クラシック音楽の黎明期を支えた作曲家であり指揮者。「からたちの花」で知られる。交響楽団活動の発展にも尽力した》

○おやじは大学卒業後、東京・赤坂の霊南坂教会でオルガン奏者兼聖歌隊指揮者として勤める傍ら、宗教音楽や歌曲、童謡などの作曲にいそしみました。といっても、作曲家の稼ぎなどしれています。NHKでラジオ番組の挿入曲を作ったり、音楽学校で教べんをとったりして、収入を得ていました。

○1936年(昭和11年)夏、僕が小学校6年の時、我が家に事件が起きました。あの「椰子の実」が、NHKラジオで全国に流れたのです。《「椰子の実」の作詞は詩人であり作家の島崎藤村。36年にNHKで始まった「国民歌謡」のため、作曲を委託された》「椰子の実」で一躍、おやじは作曲家としての地歩を固めましたが、それ以前からお弟子さんがわが家には出入りしていました。多い時には10人ぐらいいたかな。

○僕が東京音楽学校(現東京芸大)に入学した1942年(昭和17年)の秋、おやじは師匠の山田耕筰率いる「満州国建国10周年慶祝交響楽団」の打楽器奏者として、満州国(現在の中国東北部)に渡りました。〜おやじはその5年ほど前から、東京の百貨店「日本橋三越本店」の合唱団を指揮していました。〜戦後、現在のNHK交響楽団の母体となった新交響楽団では、打楽器を担当してね。

○1970年(昭和45年)3月に開幕した日本万国博覧会(大阪万博)では、「キリスト教館」の音楽ディレクターとして、パイプオルガンの演奏会や作曲コンクールを企画しました。《キリスト教館にはバチカン日本万国博キリスト教館委員会が参加。ホールにパイプオルガンが据えられ、演奏会が開かれた》日本人作曲家のカンタータを演奏しようということになりましてね。僕のおやじの大中寅二にも声を掛けました。数多くのオルガン曲を書いた作曲家で、オルガン奏者としても高名でしたから。キリスト教館は比較的小さな館ですが、おやじには晴れ舞台となりました。

○戦前、名曲「椰子の実」を世に送り、名をはせたおやじですが、戦後は東京・赤坂の霊南坂教会で、礼拝の祭のオルガン演奏をひっそりと続けていました。「バッハが聖トーマス教会のオルガ二ストとして生涯を終えたように、自分も霊南坂教会で一生を終えたい」が口癖でした。

○1979年春、教会での礼拝で演奏中、脳内出血で倒れました。〜その3年後、85歳で亡くなりました。〜NHKは、「大中寅二氏が亡くなりました」というニュースを「椰子の実」の音楽をバックに流したそうです。

というわけで、大中寅二は熱心なクリスチャンであった。そして、遠軽高校校歌の作曲をした背景はわからないが、遠軽町キリスト教との関わりを考えると、別段不思議ではない気がしてきた。

遠軽町の歴史をひもとくと明治29年東北学院大学の創設者である押川方義らが「北海道同志教育会」を設立し、翌30年5月7日に、遠軽の地にキリスト教の私立大学を建設するという目標を持って湧別浜に上陸した。その指導者であるキリスト教宣教師の信太寿之や野口芳太郎らは入植後、水害や農作物の不作の時など、小作人を自宅に呼んで、キリストの教えをこんこんと説いた。この集会が、後に明治36年に創立した「遠軽日本キリスト教会」へと発展した。

その後、アメリカ人宣教師ジョージ・ピアソン(明治21年に来日し、大正3年から昭和3年まで北見に住み、北見地方の文化に大きく貢献)の指導によって、明治39年に牧師館と集会所、伝道教会の建設した。大正2年には、街中に最初の会堂が建築されたが、昭和6年に会堂及び牧師館を焼失したが再建され、昭和56年には大改修を行い、現在に至っている。

そのほか、遠軽町には私立児童自立支援施設北海道家庭学校」(大正3年創立)が存在するが、その創始者留岡幸助もクリスチャンである。また、遠軽高校吹奏楽部は、北海道の高校の中ではそれなりの存在感を示しているが、その創立にも教会が関わっている。大正2年に「救世軍遠軽小隊が結成されて、地元で演奏活動を行っていたが、戦後の昭和27年の秋、遠軽高校の生徒が使い古された楽器を譲り受けたところから、オホーツク管内で一番早く吹奏楽部が創立(昭和28年)された。これらのことを知ると、遠軽町の色々な分野で、教会が大きく関わっていることが確認出来る。その意味では、遠軽町の街中に所在する教会、さらに二度ほど見学した「北海道家庭学校」の礼拝堂(大正8年完成)は、重要な文化財であると共に観光資源と考えるのだ。