共に大作家の吉村昭と司馬遼太郎との作風の対比

8月4日(土)の午後2時半から約2時間、都内・荒川区の区施設に参加者約百人を集めて、吉村昭研究会主催の「第10回悠遠(ゆうえん)会」が開催された。同会では、最初に朗読家・田中泰子氏が、ドイツ人医師のシーボルトと長崎の遊女との間に生まれたイネに関して、吉村昭司馬遼太郎の作品の描写を抜き出し、両者の違いを朗読で解説した。

次いで、吉村昭研究会の会長・桑原文明(68歳)が、共にほぼ同時代を生きた大作家の吉村昭(1927・5・1〜2006・7・31)と司馬遼太郎(1923・8・7〜96・2・12)の作風などを比較する講演を行った。講演内容は、会場で販売していた小冊子「吉村昭研究」第43号に掲載されていたので、この小冊子の文面から引用して紹介する。

さて今日は、吉村昭司馬遼太郎との対比と言う事で、〜司馬氏の作品は、とにかく先ず面白い。物語をグングン読ませる強力な力を持っています。例えば「坂の上の雲」ですと、厚い文庫本で八巻もあるのですが、私は何度となく読み返しました。特に最後の巻(第八巻)の日本海海戦は、実力が拮抗していると言われたロシアと日本の艦隊が戦って、日本が完全勝利するのですから、日本人のナショナリズムを刺激して、面白くない筈は無いのです。野球で言えば、ノーヒットノーランに当たるでしょうか。

私は逆に、余りにも面白いので、これはちょっと危険だぞと思いました。お酒が美味しいからと言って、朝からビールを飲んでいたら身体を壊してしまうのと同じ理屈です。

坂の上の雲」の最後の巻の最後尾に、司馬氏はこんな風に書いています。「そういう待機期間中、珍事がおこった…」。日本海海戦の旗艦であった「戦艦三笠」の沈没です。司馬氏はたった二十行しか書いていないのですが、吉村氏は逆にそこから始めるのです。戦艦大和、武蔵が出現する前の日本の代表的戦艦は「陸奥」でした。「陸奥爆沈」では、日本の軍艦の爆沈事故を調べ始めると、三笠爆沈にまでたどり着いてしまうのです。司馬氏が書き終えたその地点から、吉村先生は書き始めるのです。ロシア艦隊のロジェストヴィンスキー提督のことも、司馬氏は敗軍の将として、ほとんど興味を持っておりません。それに対して吉村先生は、何を食べ、どんな俘虜生活を送っていたのか、そして帰国後の行動までも記述しています。〜

吉村氏と司馬氏との違いについて、まず眼につくのはその人気度です。圧倒的に司馬氏の方が勝っています。私の実感では10対1位の感覚です。ついでに付け加えれば、私の住んでいる愛媛県では、松山市に「坂の上の雲ミュージアム」があります。一つの長編小説で、博物館が一つ出来上がってしまうのです。さすがの吉村先生もこれにはかないません。他に東大阪市の自宅の跡には「司馬遼太郎記念館」があります。姫路文学館には「司馬遼太郎記念室」もあります。

吉村氏には、この近く(荒川区)に「吉村昭記念文学館」があります。他に愛媛県には「吉村昭資料室」(私の事です)があります。(笑)

歴史小説では司馬氏の視点は、高層ビルの屋上にありますから、街の流れがよく見えます。「そこの車、いくら急いだって、この先に踏切事故で列車が止まっているから、意味がないよ」と言える訳です。それに対して吉村氏は、トンネル工事の最先端(切羽)ですから、いつ岩盤が崩落するか、大出水があるか分かりません。ハラハラドキドキの臨場感です。

私のイメージでは、司馬ファンには、会社の社長や重役の方が多いように思えます。吉村ファンは、医者や技術者などの一匹狼が多いように感じます。〜

これに対して吉村氏は、坂本竜馬を幕末の活動家の一人としか認めておりません。歴史の大きな流れは、一人や二人の力ではどうにもなるものではない、と言っています。それは太平洋戦争についても同様で、昭和天皇の開戦のサインにしても、否という選択肢は無かった、との趣旨を述べています。

この二人は世間的にはライバルと見られているのですが、実際の所はどうなのでしょうか?本当の所は本人に聴いて見なければ分からないのですが、二人の微妙な距離感は、次に上げる三つの話しからある程度推測できます。

一つは題材を巡ってのバッティングです。司馬氏の長編小説に「菜の花の沖」があります。前述した和田宏氏(文藝春秋の編集者で、司馬・吉村両氏を担当)が担当していたので『司馬遼太郎という人』(文春新書、H16・10)に詳しく書いてありますので引用します。

「鮮明に憶えているが、羽田に向う高速道路を走行中の車中で『こんどは高田屋嘉兵衛を書くことにした』とぽつりといった。頭の中 が一瞬白くなった。(中略)嘉兵衛の子孫の方から、資料を提供するのでどなたか嘉兵衛のことを書いてくれる作家はいないだろうか、という打診が人を介してあった。そこでかねてから親しくさせていただいている人気作家(かりにAさんとする)にその話を持っていくと、おどろいたことにAさんは嘉兵衛を書く準備をひそかにしていた」

Aさんと言うのは、勿論吉村氏です。

「やむを得ず経過を話すと、今度は司馬さんが意表を突かれて絶句する番になった。『いや…』といってしばらく黙っていたが、『Aさんのはまだ先の計画だろうけど、僕の方はもう取材もほとんど終って、すぐにも書き出さなきゃならんしなあ』とため息をついた。『Aさんはすばらしい仕事をやってきた人だから、僕のとはちがった嘉兵衛を書くだろう。たがいに自分の道を行くしかないなあ』と複雑な表情で呟いた。/すぐにAさんにこの話を連絡すると、『そうですか、それじゃ私は書かないことにします』と淡々といった」

猟師が熊を追って行くと、向こうから熊を追跡している別な猟師が現れた、と言う所でしょうか。二人が共同して倒すと言うことが有り得ない以上、どちらかが降りるしかありません。猟師と言えば、海馬(トド)撃ち猟師を取材中、別な作家が話を聞きに来たと聞かされたことがあります。氏は執筆終了後、しばらくの間発表せず、その作家が取材だけに終ったと判断された頃、雑誌掲載(小説新潮、S63・10)を諒承しました。案外、作家と言うのも不自由なものみたいです。

〜吉村氏は戦艦武蔵の進水式に、責任者が短刀を呑んで出席した事実を書いていません。ナニワ節になってしまうからです。

吉村氏は、「史実こそドラマ」と言う考えから、事実に手を加えることはありません。歴史の流れとは、いくつもの選択肢の中から、その一つに決断し、取り入れながら進んで行く、と言う立場は取っていません。一見、いくつもの手法があるように見えても、実際にはその中の一つを選ばざるを得ない、と言う考えです。この方法は、複雑な計算式に取組む数学者の姿に似ています。乱雑な計算式を整理し、単純化して完成させた公式を、「美しい」と言っている姿が、吉村氏のイメージかもしれません。

今回の文章は、過去最長の部類に入る長文になった。その理由は、大好きな作家・吉村昭と、人気度ナンバーワンの作家・司馬遼太郎との比較であるので、我が輩も力が入った。今回の催しは、ネットの「東京新聞」都内版(7月24日付け)で知ったが、本当に参加して良かった。そして、本当に勉強になった。だから、その知識の分け前を少しでも皆さんに差し上げたくて、長文になった。また、少しでも吉村昭ファンが増えることを願ったことも、その理由に挙げられる。