日本国憲法第九条「戦争放棄」の密談

最近、新著「密談の戦後史」(著者=塩田潮、角川選書)を読了した。この新著では、1945年8月の第二次世界大戦終結から、2度目の安倍政権が発足する2012年12月まで、67年間の政治史の計33の密談を紹介している。そこで筆者は、面白そうな密談3つを紹介する予定であったが、分量が多くなったので、最も重要な日本国憲法第九条「戦争の放棄」の密談だけを紹介することにした。

密談日は1946年1月24日、密談場所は東京・有楽町の第一生命相互本社ビルの連合国軍総司令部最高司令官執務室、密談者は幣原喜重郎ダグラス・マッカーサー

時の首相・幣原と連合国軍のマッカーサー元帥は、二人だけで約3時間話し合った。この密談で注目されるのは、憲法第九条に規定された「戦争放棄の条項」の発案を、どちらが先に言い出したのか、ということだ。つまり、二人とも後日「相手側が先に憲法戦争放棄を言い出した」と証言しているからだ。幣原内閣の外相だった吉田茂は「私の感じでは、あれはやはりマッカーサー元帥が先きに言い出したことのように思う」(吉田茂著「回想十年 第二巻」)と書いている。

当時の二人は、幣原は天皇制の護持だけは守らなければならない、一方のマッカーサー天皇制の存続を望んでいた。そこで、二人は極東委員会(日本占領のために設けられた連合国の対日政策決定機関)が、天皇制を問題にしている以上、それ以外のことは全て犠牲にしてもいいと考えていた。

そんな中、2016年3月に、二人の密談に関して、注目すべき証言集「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」が上梓された。その出典は、幣原が衆議院議長の時に議長秘書官を務めた平野三郎で、幣原が死亡する約2週間前の51年2月下旬に、東京・世田谷の幣原邸で2時間前後懇談した際の証言(通称「平野文書」)という。

その中で幣原は、

原子爆弾というものが出来た以上、世界の事情は根本的に変って終ったと僕は思う。(中略)世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。

○元来、第九条のようなことは日本側から言いだすようなことは出来るものではない。まして天皇の問題に至っては尚更である。この二つは密接にからみ合っていた。実に重大な段階にあった。

憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。

繰り返すが、もともと幣原は憲法改正には乗り気ではなかった。だが、天皇制の存続が危機にさらされていることを知り、総司令部の要求を受け入れることを決意したという。

最後は、著者の見方を最後に明らかにしている。

ー敗戦前、天皇の名において戦争をした日本に向かって天皇制の廃止を唱える国々に対し、天皇制の維持を認めさせるには「戦争をしない国」であることを約束するしかない。そのためには新憲法戦争放棄条項を書き込み、世界に向けて「戦争をしなあ国」を表明するのが最適の道である。おそらく幣原とマッカーサーはその点が一致したに違いない。ー

以上だけで、密談のお話しを終える予定であった。ところが、今月発売の月刊誌「世界」(6月号)において、前述の「平野文章」を取り上げた寄稿文「憲法九条は誰が発案したのか」(都留分科大学名誉教授・笠原十九司)が掲載されたので、左翼学者の見解も紹介することにした。

ーこれは推測だが、幣原が最後まで自身が憲法九条の発案者であることを公言せず、また平野にも公表しないよう命じたのは、自らの理念が憲法第九条として結実したことにおいて満足し、その経過を公表することで関係者に影響が及ぶことを懸念したためであろう。ー

我が輩も、一連の経緯を知ると、確かに笠原氏の見解が正しいと思うが、そこには今はやりの“忖度"もあったと思う。そして、寄稿文の最後に「安倍・自民党政権がめざしているように、2020年の東京オリンピックの年に大日本帝国憲法を彷彿とさせる自民党憲法草案にもとづいた新憲法が施行される危険性もある」との見解には同意できない。最後は、やはり左翼勢力の論調になっている。要は、憲法改正の方向に国民世論が流れているので、憲法改正派が嫌う“幣原発案説"を持ち出し、占領軍の“押し付け説"を牽制する意味合いもあると思う。そもそも、昔から左翼勢力の言わんとすることは、ちっとも変わらない。これだけ、日本を取り巻く国際情勢や国内状況が変化しているにも関わらずだ。だから、今では左翼的思考人物のお話しを聴きたいとは思わない。話しを聴いても、国際基準の法解釈、国際政治の力学、軍事的バランス、地政学の知見などがなく、全く勉強にならないからだ。

それで、勉強になる記事をもう一つ。昨日の読売新聞の連載「時代の証言者」の登場人物、元駐米大使・加藤良三の最終回である。

ーこんな状況でも日本の安全保障論議は、相変わらず砂地に首を突っ込むダチョウのように、見たくもないものを見ないで済まそうとしているようです。日本が直面する本質的な問題は、今の政権スキャンダルにはないことはわかっているのですが、安保問題で本音の議論をするのを回避する雰囲気が見て取れます。

このままでは、憲法改正論議が進まない間に抜き差しならない事態が起こる可能性もある。しかし、国民は、やる人がやってくれるだろう、為政者の方も、やるときはやってしまえばいい、との気持ちが潜んでいるのではないか。いわば超法規的措置の容認で、それは法治国家に背反する考え方だし、そもそも措置が効果的になるためには備えがなければなりません。

もし北朝鮮核兵器が残るなら、日本は核を持つ国に取り巻かれることなる。まず非核三原則のうち、持ち込ませず、は見直した方がいい、との主張が出てきて、ゆくゆくは、米国の核の信頼性、抑止力の実効性が問われ、日本独自の核武装の議論が必要になるかもしれません。ー

要するに、憲法改正論議もしないうちに、厳しい現実を突きつけられる可能性があると言っているのだ。日本の左翼勢力は、盛んに対米追随といい、安倍政権を批判しているが、結局は憲法を改正して、国際水準の軍隊を持たない限り、いつまでたっても自立した国家には至らないのだ。改正反対派は「憲法には一切手を触れるな」と主張しているが、国家の幾末を心配するならば、速やかに憲法改正条項をあぶり出し、活発な論議を展開するべきだ。

我が輩は、もう二十代の時から、なぜ故に日本は、普通の国になれないのかと思ってきた。その背景を考えると、やはり先の戦争が余りにもおぞましいので、戦争を避けようとする力学が非常に強くなったと理解した。しかし、悲惨な戦争は、既に70年前の出来事である。しかも、周りの元共産圏の国々を勉強すると、簡単な手続きで何百万人も銃殺したり、何千万人も餓死させた国であるが、未だに悲惨な出来事を反省していない。まさに、人間社会のおぞましさと理不尽さを抱えた国々である。こうした国々が隣国にある中で、我が国だけが理想国家を追求したり、奇麗事や現実離れした政策を追求して、果たして安全保障は大丈夫なのかと考えるのだ。尚更、国民の生命を考える国会議員が、外交・安全保障政策を真剣に思考しなくて良いのか、とも考えるのだ。