松浦武四郎と渚滑川& 滝上町&アイヌ

本年は、明治元年(1868年)から150年、そして北海道も「蝦夷地」から「北海道」と改称して、今年で150年である。北海道の「名付け親」は、三重県出身の探検家・松浦武四郎(1818〜88)で、江戸時代末期の13年間で6度の蝦夷地調査を実施、その際にはアイヌ民族と寝食をともにし、協力を得ながら詳細な記録(延べ152冊)を残した。

江戸時代が終わった明治2年、武四郎は明治政府の推挙で、開拓使という役所で、長官、次官に次ぐ開拓判官を務めた。武四郎が担った仕事の中に、蝦夷地に変わる新しい名称の選定があり、アイヌ語の「カイ(加伊)」(この土地で生まれた者)を用い、「北のアイヌの人々が暮らす大地」という思いを込めて「北加伊道」を提案したことから、字を改めて「北海道」と命名(旧暦8月15日、西暦9月20日<日本では、明治元年から同5年まで旧暦を使用>)された。

というわけで、今年は道内で様々な記念イベントが企画されている。そうした中で、筆者が少年時代を過ごした滝上町でも3月10日、三重県松阪市にある「松浦武四郎記念館」の元館長・高瀬英雄氏を招いて、「松浦武四郎アイヌ文化フォーラム」を開催した。

ネットで上記開催を知った筆者は、さっそく地元の同級生・町長と連絡を取り、フォーラムで配布された資料の郵送をお願いした。入手した資料を見ると、予想以上の内容であったので、武四郎の足跡・功績を紹介することにした。

最初は、フォーラムでの町長挨拶である。その挨拶の中に、松浦武四郎滝上町との関わりに触れているので紹介する。

滝上町の本格的な開拓は、明治41年と他の地域に比べ遅いのですが、富山団体30戸、徳島団体7戸、高知10戸が入植し、本格的な定住開拓が始まって今年で110年となります。滝上村史によりますと、明治32、3年頃、留萌から来たアイヌ人・柳田初太郎という者が、渚滑川合流点で漁労を営んでいた。後年開拓に入った人々は、初太郎から多大な便益を受けたことを、本町開発の貴重な存在として忘れてはなるまいと記されています。松浦武四郎は、さらにその50年ほど前、渚滑川を遡り滝上オシラネップ川口辺りまで踏査し、多くのアイヌ語地名が「渚滑日誌」に書かれています。

○武四郎は、アイヌの人々の協力を得て調査を進め、アイヌ語に由来した地名を国名・郡名として残した功績も大きいのです。例えば、明治時代当初の11国・86郡、その後の支庁(現在の振興局)名の選定にも武四郎が携わっている。興味深いのは、当時の北見国には、現在の宗谷振興局の宗谷郡利尻郡礼文郡枝幸郡が含まれていた。即ち、現在の北海道第12選挙区がそのまま当てはまるのです。ちなみに滝上町は当初、渚滑村の一部で、その後分村(大正7年)して滝上村が誕生し、人口4920人・戸数982戸で、新しい村づくりが始まりました。

○武四郎のもう一つの功績は、アイヌの人々を尊重する良き理解者であったことです。アイヌの若者たちが宗谷や斜里の漁場へ取られ、残っているのは年寄りと子供だけと「渚滑日誌」に記されています。そこで、アイヌの人々の平和な生活を壊した松前藩の場所請負制度を問題視し、アイヌの人々が過酷な労働で倒れていく姿に、幕府に対し「開発は大事だが、まずアイヌ民族の命を救い、文化は尊重されるべき」と訴えたことは特筆されることであります。そのことは、武四郎が価値観の違いを排除せず、受け入れ寛容な心の持ち主だったことの証であります。

次いで、フォーラムでのメインテーマ・武四郎の渚滑川調査について紹介する。武四郎は蝦夷踏査6度のうち、2回目(1846年)、4回目(56年)、6回目(58年)の3回、渚滑川河口の紋別を訪れている。つまり、渚滑川調査は、蝦夷踏査最後の年・旧暦1858年5月26〜28日(西暦7月6〜8日)に実施されたものである。

渚滑川の最終地点は、今の滝上町濁川に所在する渚滑川オシラネップ川の合流点付近である。この際、犬2匹を連れた立派なアイヌ(名前=シコツアイノ)と会い、その後、武四郎一行(他にアイヌ4人)の帰路では河口まで同行している。この際にアイヌが語った内容を、講演者の高瀬氏は「オシラネップで出会ったアイヌの人が語った言葉が、まさしく武四郎の言葉と思う」と解説している。

このアイヌの話しは、武四郎の著書「近世蝦夷人物誌」(3巻9編99話)の中に載っているが、1858年当時、幕府箱館奉行所は出版を許可しなかった。そのため、その原著は「アイヌ人物誌 近世蝦夷人物誌」(更科源蔵吉田豊共訳、出版=1981年)という形で出版された際に、「(29)仙人シコツアイノ」という項目で掲載している。

<(29)仙人シコツアイノ>

シコツアイノは、もとは太平洋岸十勝領の会所元の生まれで、今年、三十五、六歳となる。幼い時から人里を嫌って山中にいることを好み、1日でも山に入らねば気分が悪く、三日山に行かねば病床につくといったありさまであった。絶えず弓矢を携えて巨大な熊や鹿をしとめてはそれを食べ、いつのまにか穀類は食べなくなった。そして三年ほど、それを続けたあげく、ふいと家を出て石狩の山中に入り、衣類が破れ果てれば毛皮を着、獣肉を食べて三十年あまり、人の顔を見ることもなく暮らしていた。

だが、この七、八年前からは、オホーツク海岸の紋別との境にあたる渚滑(シヨコツ)川の上流に移って、そのあたりに住んでいるという。この紋別付近では、ときとして彼の姿を見る者もいて、シコツアイノと呼んでいる。

私は、それなら山中のことに詳しいであろうと会いたく思い、今年の五月二十三日、この川沿いに遡って、およそ二十里(八十キロ)あまり上流に行ったところ、思いがけなく彼と出会った。

そこで、あれもこれもと山の話を聞かせてもらったところ、なるほど石狩、天塩、夕張から阿寒、釧路(クスリ)に至るまでの山々について、掌の中の物を指すように、ありありと語るのであった。

穀類を食べなくなってから二十年余、塩もまた、ずっとなめたことがないというので、米、塩、糸、針などを与え、各地の話を聞いてから「おまえはもともと十勝アイヌなのに、どうしてシコツアイノと名乗るのか」と尋ねた。

彼は「土地の名を名乗れば長生きしますので」と言うので「そのように穀物も塩も食べずに長生きして、なにか楽しいことがあるのか」と問うた。

するとシコツアイノは答えた。

「わしは四十七、八になりますが、これまでにも世の中がいろいろと変わるのを見てきました。あと四十年、五十年と生きていれば、さだめしいろいろなことを見聞できると思って長生きを願っているのです。衣食住の望みはなにもありませぬ。ただ、この蝦夷地の生き末を見届けたいだけであります。そう思っているうちに松前藩の支配は終わり、蝦夷地は江戸のご領分となりました。そうなれば、こんどはアイヌの面倒をよくみてくださるかと思い、山を降りて里で話を聞いてみたところ、下々の者を痛めつけるやり方は、松前藩のころとさして変わってはおりませぬ。このようなことでは、昔あったように、ロシア人やその他の外国人どもがやってきて、アイヌを手なずけたならば、この蝦夷地はどうなってしまうことやらと、それを見届けたいがために、こうして長命を願っているのであります。また、このたびは、アイヌに月代を剃らせて髪を和人のようにせよとのことでありますが、当地のアイヌたちは、だれも剃ろうとはいたしません。それならばどのような姿に変えられるのじゃろうかと、それが心配であります」と涙を流し、ではおさらばと別れを告げて山に入ろうとするのであった。

そこで古い襦袢一枚を与え、鍋は持っているかと尋ねると、破れ鍋一枚を持っていたが今は半分になってしまったとのことゆえ、それならば、箱館に帰ってから必ず鍋を一枚やるからと約束したところ、さらばさらばと、後も振り返らず、足早に山中へと去って行った。

それにしても、武四郎の「志与古津(しよこつ)日誌」(渚滑日誌)を読むと、渚滑川の川沿いの地形などが、こと細かく書かれている。さらに、川沿いのアイヌたちの生活の過酷さを、人口減少を通じて伝えている。例えば、渚滑は昔は50軒、今は23軒。紋別は昔は80軒、今は34軒という風にである。

ということで、やっとこさ、滝上町を紹介することが出来た。以前から恩返しを兼ねて、滝上町のことを書きたかったので、その意味では武四郎には感謝している。今後も、交流人口増加に貢献出来る文章が書ければ、と思っている次第である。