平将門の本拠地は我孫子市であった?

この地に住み始めて、はや十年。この間、地元の歴史を知るために、我孫子市柏市の勉強会に十回以上参加してきた。この中で、一番関心を持った事柄は、古代史の英雄・平将門(899〜940)のことである。

最初に参加した勉強会は、昨年3月の演題「我孫子平将門東葛の将門伝説考」(講師=三谷和夫)である。次いで今年6月のフォーラム「坂東の豪族 平将門フォーラムー馬・鉄・布」(主催:関東学研究会/共催:我孫子市坂東市/取手市流山市)で、そして今月9日の演題「我孫子と将門伝説」(講師=戸田七支)である。そこで、昨日開催の講演会で配布された資料(あびこの文化、第160号)の中に、戸田氏が今年6月開催のフォーラムに対する見解と、今回の講演内容が含まれているので、まずは資料の全文を紹介する。

さる6月、我孫子市民プラザホールに於いて、関東学会主催による将門フォーラムが開催された。

当日200名を越す聴衆が、13時から17時まで熱心に聞き入った。将門に対する関心が如何に大きいかを物語っている。しかしながら会場を後にした人達、果たして満足したであろうか。答えは「ノー」ではないだろか。

主催者に「どうして我孫子でフォーラムを開いたのですか?」と問えば、「ここは将門伝説が多くあり、何か関係がありそうだから」と答えるであろう。『我孫子市史古代中世編』には次のように書かれている。「…伝説をもって史実とすることは出来ない。しかしながらこの地域に将門の乱に関する伝説が濃厚に残在していることは重要なことであって、これを無価値なものとすべきではない…」。

第一級史料「将門記」には始めから終わり迄、一切我孫子は登場しない。それなのに何故我孫子に多くの将門伝説が残っているのか、それが何故重要なことか言及していない。実はここをしっかりと認識する事が将門を研究するうえで重要なこととなる。

筆者は我孫子市日秀地方のみに存在する或る伝説からヒントを得て、将門の本拠地がこの地域であるとの結論に達した。本拠地であるが故に多くの伝説が残された。例えば、将門の守り本尊である日秀観音の存在、相馬御厨の下司職に就いた、桔梗御前を木下竹袋に住まわせたことなど、日秀で平穏な生活をしていた名残であろう。また、本拠地であるが故に遭遇したであろう、奪略と殲滅の惨劇の後に生まれた多くの伝説がある。例えば、龍泉寺の焼失、桔梗を植えない、キュウリを輪切りにしない、成田詣でをしない人の存在、これ等は将門の死後生まれたものである。

本拠地の概念も考えて見る必要がある。将門の戦力を支えている母体となるもので、戦略物資を製造し、貯蔵し、供給する役目を果たす所である。前線の将門とは離れている必要がある。前線で矢ジリを作っていることは出来ない。我孫子の周辺に古代の製鉄所が存在した理由がここに見ることができる。

反乱者、謀反人と言う将門の人物像はたぶんに明治維新政府によって歪められた面がある。江戸時代までは崇りの神様として菅原道真と同様に祀られていたはずである。このことは神田明神の祀り方に見られる。明治6年摂社の地位に格下げしていた。もとの地位に戻したのは、昭和59年になってからであると宮司が言っている。

新しいパワースポットが我孫子の地に甦る日は近い。

即ち、戸田氏は、平将門の本拠地は我孫子市日秀(ひびり)ではないのか、と述べているのだ。その背景には、将門の本拠地は、茨城県坂東市(国王神社や平将門像等がある)とされているが、将門伝説は“日秀"にかなり集中しているからだ。

例えば、旧湖北村(現在の我孫子市)の村史に、

「天慶3年公の戦没するに遭うや、その遺臣等嘗て公が手賀村布瀬明神下より手賀沼を騎馬にて乗り切り、湖畔の岡陵に登りて馬を繁ぎ、旭日朝天を拝せし地域に於いて一宇を奉奉祀し、公の神霊を迎えし」

という伝説を掲載している。つまり、伝説が村史として掲載されている訳で、さすがに現在の我孫子市史には掲載されていない。それ程に日秀地区には、将門伝説が多く残されており、このことは村人の将門に対する強い願望(本拠地)を示している。

このほか、戸田氏は、将門の戦死場所から“日秀本拠地説"を解説している。将門最後の戦いは、四百騎対三千騎という劣勢な兵力であったが、以前の戦いでは兵力は七千〜八千人であった。それでは、なぜ故に兵力が四百であったのか。それは、将門が戦死した旧暦2月14日が、農作業の始まる時期であったので、兵士の農民を本拠地周辺(今の我孫子、柏、野田、取手、守谷)などに帰したためである。本拠地が近ければ、急遽兵力を集められたが、本拠地が遠いので、坂東市北山で戦死することになった。本拠地が坂東市であれば、兵力が四百人であるハズがないというのだ。

ところで、我が輩は昨年3月開催の“将門勉強会"に参加した後、日秀地区に所在する将門の井戸、将門神社、観音堂(首曲地蔵があり、春の桜は素晴らしい)、さらに柏市岩井の将門神社を訪れたが、どれもこれも歴史を感じた。特に、我が輩のような北海道出身者にとっては、一千年前の歴史を感じることは大変嬉しいことであった。

最後は、色んな勉強会に参加して感じたことである。講演会の講師は、主に元高校教師が多く、それも地元出身者ではなく、遠く三重県や愛知県である。住み着いた場所で、定年後に改めて勉強して、発表しているようだ。いずれも、勉強好きで、好奇心旺盛であることは共通していると思う。その意味では、我が輩の故郷・オホーツク管内でも、住み着いた人達が、地元の歴史を勉強して、人を呼び寄せてくれればと思った。