栃木の偉人・荒井退造のその後

筆者は一昨年、沖縄戦時の沖縄県警察部長・荒井退造について、4〜5回にわたって紹介した。その後、沖縄県糸満市の「摩文任(まぶに)の丘」に所在する荒井退造の「終焉之地」碑には、栃木県知事や県会議長が参拝(2015年10月27日)したり、県内の高校生が研修旅行の際に訪れるようになった。さらに、退造の母校・宇都宮高校による、沖縄県高校野球連盟に対する「荒井杯」贈呈(16年3月26日)、野球部の沖縄遠征・親善試合、沖縄研修旅行の復活がある。また、宇都宮市の生家には、作家・田村洋三氏の揮毫で「たじろがず 沖縄に殉じた 荒井退造」と刻まれた顕彰碑と資料館が設置(16年11月27日)された。

そうした中、今年6月19日付け「下野新聞」は、「栃木県教育委員会が初めて作製(1万3千部)した県立高校向けの歴史(日本史、世界史)の「資料集」(105ページ)に、太平洋戦争末期に沖縄県警察部長を務めた宇都宮市出身の荒井退造(1900〜45)が取り上げられている。足尾銅山鉱毒事件の被害民救済などに尽力した田中正造(1841〜1913)に比肩する扱いで、家族に宛てた手紙を紹介するなど5ページを割き、3月に全県立高に配布した」と報道した。

そこで、筆者も「資料集」をみたいと考え、宇都宮市の友人に地元書店での購入依頼、栃木県教育委員会に対する電話依頼、地元図書館を通して栃木県立図書館からの入手依頼を行ったが、全て不調に終わった。最後の手段として、近くの栃木県立高校の訪問を考えたが、止めた。このような現状を、栃木県教育委員会はどのように考えているのか?

話を戻す。最近、都内神保町の古本屋で「沖縄の島守島田叡ー親しきものの追憶から」(1964年6月28日発行、約340ページ)という本を購入(3500円)した。この古本は、沖縄県知事・島田叡の母校・兵庫県立兵庫高校が中心なって発行したもので、箱入りの立派なものである。その中に、警察行政を担当した山川泰邦氏の著書「秘録、沖縄戦史」(1958年)から引用した、「島田知事を助けた人たち」という項目がある。そこには、知られざる荒井退造の一面も掲載されているので、全文紹介することにした。

<荒井退造>

栃木県出身、昭和18年7月、福井県官房長から転任。警察警備隊を解散した6月9日ごろは非衛生的な壕生活と栄養失調でひどく衰弱していた。なんとか脱出して戦闘の状況、官民の惨苦を内務省に報告したいと嘆いていたが、その体ではどうにもならなかった。そこでこの任務を伊野波盛和警防課長(国頭への脱出行で6月16日夜港川の海を泳いでいて鉄条網にかかり集中射撃を受け戦死)に命じ、島田知事と6月12日、巡査部長仲村兼考を同伴、摩文任岳の軍司令部の壕に移っていった。

部長は長参謀長に「軍と運命を共にしたい」と決意を述べたところ、長参謀長は「警察部長は行政官であるからそれには及ばない。最後まで体を大切にされる様に」としきりにとどめたと伝えられる。

住民が、いろいろのデマに迷されたり「どうせ死ぬなら海の上で死ぬより、郷里で死んだ方がよい」などの声の中で、敢然疎開を推進し、10万余の疎開の恩人とされている。

「沖縄の奴等は、目先が利かない。睫毛に火がついてからあわてても、わしは知らんぞ」とどなりながらどしどし計画をすすめ、軍と交渉を重ね、輸送計画を立てた。それでもはかばかしくないので警察官、県庁職員の家族を率先、疎開させて促進した。

本島北部の疎開受入地を管轄する塩屋警察署を名護町に設置、開庁式が沖縄作戦開始の3月23日であった。伊場内政部長は帰任せず、病気の牧経済部長も転地のため引揚げて、島田知事着任までは実質上の責任者であり、着任後は唯一の相談相手であった。

同著は10月空襲に鉄カブト姿で陣頭指揮の様子など伝えているが、山川氏は1946年(昭和21年)の日誌に「疎開者帰る。この朗報に、妻子と離れていた夫や、明け暮れ九州の空を仰いで、肉親の帰る日を待ち焦がれていた人々の、歓喜のどよめきが聞こえる。それにつけても思い出すのは、荒井氏のことだ。彼は疎開を強引に行った。若し、疎開をただなりゆきにまかせていたら、一体どうなったであろう。

島尻で砲弾や機銃に撃たれて、あえない最後をとげた幾万の人々。あるいは手を、足をもぎとられ、血まみれになりながら、親は子を、子は親を呼びつづけていた悲惨な姿…。または国頭の山で栄養失調と、マラリアのために死んでいった人々を思いうかべて、慄然とする。10万余の疎開者よ。荒井さんは皆さんの帰りを草葉の陰で、どんなにか喜んでいることだろう」と記したとのことである。

それにしても、兵庫県立兵庫高校は、大した高校だ!1964年というと、東京五輪開催の年であるし、戦後20年しか経っていない。それなのに、こんな“立派な書籍"を発行したことには、ただただ驚くばかりだ。

さて、荒井退造であるが、どうか映画化出来ないものか。なんといっても、退造は昭和18年7月に沖縄県に赴任し、疎開政策では一番苦労した人物である。その意味で、退造を映画化すれば、必然的に戦時中の沖縄県の苦悩が解る。いつの日にか、映画化されることを楽しみにして、ひとまず“荒井退造のその後"を終わりにします。