新撰組の故郷・日野市の今昔物語

今年の連休は、新撰組の故郷・日野市を訪れた。最初に向かったのは、土方歳三銅像が建立されている「高幡不動尊」で、それはそれは立派な銅像であった。銅像近くで小冊子を購入(200円)したが、この中に銅像建立の経緯などが書かれているので紹介したい。

土方歳三像建立のこぼれ話―

高幡不動尊では戦前・戦後を通じる何回か新撰組隊士の慰霊法要を行って来たが、一般社会では猶、逆賊のイメージが強く新撰組受難の日々が続いていた。

戦後徐々に見直しの気運が興りつつあったが、殊に司馬遼太郎先生の「燃えよ剣」が世に出て以来、土方歳三をはじめとする新撰組の人気は急上昇をとげた。

そんな折、地元有志の間で新撰組の局長近藤勇、地元出身の副長土方歳三及び六番隊長井上源三郎銅像建立の計画がもちあがり、設計図もあがり、大方の資金の目処がついたので正式に観光協会に計画をもちこんだところ、時の市の幹部から暴力団まがいの人達の像を建てるのは文化都市日野市に応わしくないとのお達しがあり計画は沙汰止めとなってしまった。

その後、日野ロータリークラブが結成30周年を記念して土方歳三像を建立することになり平成7年秋、現在地に建立されたものである。

つまり、新撰組は、新政府軍と戦ったことで、地元では長らく人気がなく、子孫たちも目立たないように生活していたという。その意味では、戦後の民主主義が、良い面に現れた時評かもしれない。

続いて、土方の兄の6代目子孫が館長を務める「土方歳三資料館」に行った。資料館は、自宅の一部に設置され、入館料は500円であった。それにしても女性が多く、入場者の4分の3は女性客であった。やはり、土方歳三が、戦死する直前に函館で撮影した写真が影響していると思う。

次いで、日野市立の「新撰組のふるさと歴史館」を訪れた。入館料は200円で、それなりの資料が置かれていた。特に、無料て入手した小冊子4冊は、大変参考になったので、その一部を紹介したい。

文久(1863年)2月8日、募集に応じた浪士の中から236名が選ばれ、京都へ向けて中山道を上がった。その「浪士組」の出身地は、武蔵68人、上野58人、甲斐19人、下野12人、陸奥8人、常陸7人、下総・信濃・越前・播磨・肥後各5人という順に多い。

甲州道は、人足や馬の数も中山道の半分であり、交通量は少なかった。実際、加賀藩(100万石)や福井藩(32万石)などの大藩も通行し、全部で40藩以上が通行していた中山道に対し、参勤交代で甲州道を通行していたのはいずれも5万石未満の小藩のみであった。

甲州道と中山道は、諏訪で合流するが、甲州道の方がわずかに短かった。沿道の人口は中山道が多く、宿場の数(下諏訪〜江戸間)は中山道が29宿なのに対し、甲州道は45もの宿場が存在した。但し、甲州道には、一つの宿場の機能を分担しているところもあり、そうしたところを一つと数えると34宿になる。

○多摩は、江戸時代の初めに開発された土地が多い。その開発を行ったのは“草分け百姓"という戦国時代に主君を失った、かっての武士たちであった。また、八王子周辺には、主君をなくした千人の武士を集めて編成された「八王子千人同心」という組織があった。彼らは、普段は百姓身分だが、仕事の間だけは百姓身分より上の同心身分(武家奉公人に相当し、武士身分よりは下)となった。

要するに、多摩地域には、新撰組を生み出す土壌があった。先祖を武士とする家が少なくなく、武士への憧れを抱いている者が多い以上、幕府の呼び掛けに応じる若者が多数存在しても何ら不思議ではない。いずれにしても、観光資源が乏しい多摩地域が、新撰組で地域を売り出すことは素晴らしいことで、今後の盛り上がりに期待したい。