沖縄県における元警察部長・荒井退造の評価について

栃木県の有志は、県民が余りにも地元・旧清原村(現、宇都宮市)出身の元沖縄県警察部長・荒井退造のことを知らないので、同人の生まれた9月22日を目標に記念誌を発行することになった。そこで、記念誌の責任者など7人が沖縄県を視察することになり、その時期を「島田叡氏顕彰碑」の除幕式(6月26日)に合わせて沖縄を訪問した。

沖縄県滞在中、県内外の有力者と懇談したが、その中の一人は元沖縄県知事・大田昌秀氏(90歳)である。大田氏からは、事前に依頼していた記念誌の巻頭文をいただいほか、荒井退造についての講話があった。

○当時、荒井さんを見掛けることは、一度もなかった。学生にとっては、接触する機会がない人であった。

○沖縄の人は、荒井さんが、島田さんに負けないくらい“県民のために貢献してくれた"ことを知っている。二人とも、沖縄の恩人であるし、大事な人です。しかしながら、どういうわけか、最近は島田さんばかり取り上げられ、“どうしてなのか"と不思議に思っている。

○荒井さんは、1943年7月に沖縄県警察部長になり、島田さんは1945年1月に、大阪府内政部長から沖縄県知事になった。島田さんを助けたのは荒井さんであったし、唯一の相談役でもあった。沖縄北部などへの疎開は、荒井さんが主導して実現したものです。

○1944年の“10・10爆撃"の後、“臆病者"の泉知事は、東京に出張したまま戻って来なかった。さらに内政部長などの幹部も不在で、島田さんが翌年の1月31日に着任するまでの約4か月間は、事実上荒井さん一人で県行政に対応していた。その面では、荒井さんが一番苦労した人です。

○荒井さんが、島田さんほど注目されないのは、住民を監視する警察の責任者であったからです。当時の警察は、“スパイ活動の摘発"に力を入れていたので、県民には“怖い存在"という印象を持たれたと思う。

○戦後間もない1951(昭和26)年、今の平和祈念公園に、県民の浄財によって、島田さんや沖縄県職員を追悼する「島守の搭」と、島田さんと荒井さんの名を冠した「終焉之地碑」を建立した。当時、島田さんと荒井さんを知っている元県庁職員が存命していたので、二人の名を刻んで建立した。今から考えると、当時の沖縄の人の“着眼点"には感心する。

○荒井さんの息子・紀雄さんと会ったことがある。紀雄さんは、何回も沖縄を訪れて、「記録集成 戦さ世の県庁」(1992年、中央公論事業出版)という立派な本を出版した。さすがに東大卒で、自治省の役人であった。

○今回、栃木県の皆さんが、荒井さんを顕彰しょうと沖縄を訪ねてきたことは、大変嬉しく思います。今後に期待します。

などと語った。

更に後日、「沖縄の島守ー内務官僚かく戦えり」(中公文庫)の著者・田村洋三氏と懇談した。その際、田村氏は、

○栃木県での、戦後70年での顕彰は、遅過ぎます。荒井さんは、昭和18年7月に警察部長に就任して、その後、知事に就任した島田さんの仕事の下地を作った。まさに“疎開の恩人"です。

○私は現在84歳であるが、あと2〜3冊本を書きたいと思っている。当然、荒井さんのことも念頭にあります。

○島田さんと荒井さんから学ぶ点は、“公僕精神"です。今の政治家やエリート官僚の中に、“公僕精神"がありますか。

○島田さんの出身地・兵庫県と、沖縄県との交流は盛んである。その一方で、栃木県は置き去りになっている。皆さんに期待します。

などと語った。

9月に出版する記念誌は、次世代の人が、荒井退造の本を書く際、資料になればと考えた。ところが、思いがけずに年長者の田村氏が最初に活用してくれる可能性が出てきたので、今後が楽しみになってきた。

それにしても、大田氏や田村氏から指摘されるまでもなく、栃木県での顕彰作業は遅過ぎた。あと20年早ければ、荒井退造と面談した人や、一緒に遊んだ人が存命していたので、貴重な証言が入手できた。実に残念無念である。だが、遅きに失したが“これから"である。少しでも、沖縄県兵庫県との交流に近づけるために、ここは栃木県と宇都宮市に動いて貰わなけならない。全て“これから"である。