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栃木県の偉人・荒井退造について

2月22日、栃木県宇都宮市で開催された「清原の志士、沖縄に殉ずるー荒井退造」の講演会に出席した。講演者は、旧清原村(昭和29年に宇都宮市に吸収)出身の元栃木県立高校長・室井光氏で、昔から地元の偉人や傑人を発掘・研究している人物である。我が輩が荒井退造に関心を持ったのは、沖縄県では誰一人知らない有名人が、地元・栃木県ではほとんど知られていないからである。

まずは、講演内容を紹介し、その中で荒井退造の人物像や業績を知ってもらいたい。

○荒井退造は明治33年(1900年)、旧清原村大字上籠谷に生まれ、清原尋常高等科(現・清原中)、県立宇都宮中学(現・宇都宮高)を卒業して上京。警視庁の巡査をしながら、苦学して明治大学夜間部を卒業、昭和2年(1927年)高等文官試験に合格、同年内務省に入省した。

○昭和18年7月1日、福井県官房長から沖縄県警察部長(現・本部長)に就任。戦況厳しく連合軍による沖縄上陸、本土決戦が叫ばれつつあるただ中、同19年6月の閣議で沖縄県民10万人の疎開が決定した。

○昭和19年12月24日、泉守紀知事が戦争を恐れ任務を放棄して、突如空路で上京したことで、急遽、大阪府内政部長(副知事)・島田叡が沖縄県知事に任命された。新任の島田知事は、1月末に着任するが、その間の約1ヶ月間、荒井部長が代行指揮を取った。

沖縄戦では、島田知事を支え、沖縄本島島民の県外・北部疎開や軍との交渉などに当たった。その結果、島民49万人のうち、内地へ5万3千人、台湾(当時日本領土)へ2万人を移送し、15万人を本島北部に避難させた。それでも6万人弱の犠牲者を出したが、荒井部長が諸々の反対を押し切り敢行しなければ、もっと被害は甚大であったろうと云われている。

○そして最後は、沖縄戦収束(7月2日)間近い、6月26日、部下達の「死なないで下さい」の声を振り切って「生きろ」の言葉を残して、荒井部長と島田知事の二人は消息を断った。濠内に戻り自裁したのか、孤島沖縄の海に入水したのか、色々と諸説あるが真相は不明である。享年46歳。

○リーダーとしての勇気ある決断とその責任感に島民の信頼を得たのであろうか、今「ひめゆりの塔」と共に「荒井退造、島田叡 終焉の地」として本島に顕彰碑が建っている。今、荒井退造は父・国太郎、兄・甲一氏と一緒に宇都宮市上籠谷町高田の墓に眠っている。

講演会では、隣の御仁が盛んにハンカチで涙を拭いていたが、我が輩も最後の部分では、5〜6回涙腺が緩んだ。“感動"の講演会であった。

それにしても我が輩が不思議に思うのは、これだけの偉人が、何故に栃木県民に知られてこなかったということである。講演会で、講演者が沖縄県出身の女性に対して、「荒井退造は沖縄県ではどのように見られているのか」と尋ねたところ、女性は「神様に見られています」と答えた。このギャップ、驚いてしまうと同時に「栃木県らしいなぁ」と思った。

要するに、栃木県民は、良く言えば“控え目"、悪く言えば“他力本願"である。その背景には、地理的に首都圏に近いという好位置にあるため、努力しないでも大企業が進出(清原工業団地は内陸型工業団地では国内最大規模)、その結果、一人当たりの県民所得は常に10位前後に位置している。自分では努力しないでも、向こう側から“雇用"や“豊さ"がやって来るので、自ら地域を盛り上げる精神が欠如してしまうのだ。

しかしながら、出席者の中からは、

○栃木県民として、栃木県の偉人・田中正造と同じくらいの偉人を知らなくて恥ずかしい。

○荒井退造のことは知っていたが、まさか同じ旧清原村の人とは知らなかった。

○20年前、沖縄県で商品を売り込んだが、その時に荒井退造のことを知っていれば「荒井退造と同じふるさとから来ました」とPR出来た。今頃知って、大変残念な気持ちだ。

などという声が出ている。更に、沖縄県側からも、県内の「島田杯」少年サッカー大会に、清原地区の少年サッカーチームの参加受け入れの連絡や、清原地区の人たちから「沖縄県を訪問したい」という声も出ているようだ。いずれにしても、今後の栃木県と沖縄県との交流を期待して見守りたいと思う。