兵庫県議の“号泣事件" で感じたこと

今月1日、野々村竜太郎・兵庫県議は、地元紙「神戸新聞」から不透明な「政務活動費」使用の指摘を受けて、記者会見を行った。その際、ネットで世界的に有名になった“号泣事件"を引き起こした。

筆者もネットで、野々村県議の号泣会見を見たが、この際、同人は「県議にとっては、政務活動費の使い道など、どうでも良いことである」と述べた。この発言を聞いて、筆者は「県議は偉いのだから、この程度の金額でガタガタ文句をゆうべきではない」というふうに聞こえた。

野々村県議は、何故にあのような“高飛車な発言"をしたのか、ということを問題にしたい。はっきり言って、我が国の地方議員に対する“至れり尽くせりの好待遇"と、一部住民による必要以上の“議員持ち上げ"が、あのような発言に繋がったと考えている。一部住民の中には、地方議員を「先生、先生」と呼び、やたらに立てる人がいる。そのため、志しや意識が低い議員は“俺は偉いのだ"と勘違いして、舞い上がっているのだ。

先ずは、待遇面を考えたい。兵庫県議の場合、議員報酬は約1400万円(議員報酬と期末手当)。更に「第2の給料」と呼ばれる政務活動費600万円、更に更に「第3の給料」と呼ばれる「費用弁償」がある。これは、議会や委員会に出席した日数に応じて支払われるもので、50万円くらいある。合計すると2000万円になる。

日本の地方議会費は、総額約4000億円(地方財政は約83兆円)という。日本の財政破綻が心配される中で、このような膨大な税金を投入することが許されるのか。欧米諸国では、地方議員はボランティア活動で、報酬は非常に少ない。もしも、欧米諸国と同じ基準にすれば、日本の地方議会費は1000億円前後で収まるはずだ。いつまで、“民主主義のコスト"という名目で、この莫大な金額を地方議会費に当てるのか。

次ぎは“先生問題"を取り上げる。地方議員は「先生、先生」と呼ばれるくらい、尊敬される職業であるのか。地方議員は、無駄な支出を監視するのが仕事である。であるので、議会は無駄使いを監視出来ても、何ら価値を生み出す機関ではない。それにも関わらず「先生、先生」と呼ばれ、高い報酬を支払うとは、どうゆうことなのか。

要するに、現在の高い報酬を支払っている以上、地方議員は住民から尊敬される存在にはならない。もしも、欧米諸国と同じくらいの報酬であるならば、住民から「少ない報酬の中で、地元のために貢献していただき、本当にありがとうございます」との声が自然に出てくるはずだ。そして、これこそが地方の自立に繋がるし、本来の草の根民主主義に繋がると思う。

さて、元兵庫県議・野々村の“号泣事件"、これで終了したのか。もう一波乱、ある予感がするが…。