湧別機雷事件の現場

いよいよ北海道シリーズの最後で、湧別機雷事件を取り上げる。この事件は、昭和17年5月26日に湧別町で機雷が爆発し、町の警防団や見物人など112人が死亡した事件だ。

私は大学卒業後、東京で就職し、二十代の時に遠軽地方6か町村の故郷会に出席した。その際、初めて湧別での機雷事件の事を知った。そして、すぐに“本にしたい"と思った。

まず最初に、今では記録文学の大作家として亡くなった吉村昭に手紙を出した。だが、「現在、大作を執筆中」とのハガキがきて断念。次いで、大物政治評論家の秘書を介して沢木耕太郎と東京・赤阪のホテルで面談。しかし、沢木氏は「見えない」を連発したので断念。結局、以前からの知り合いで、本人自ら「書きたい」との申し入れがあったので宇治芳雄氏に頼む事にした。

 昭和54年秋、宇治氏に取材先と取材費を渡し、湧別町に送り出した。そして翌55年4月30日に「汝はサロマ湖にて戦死せり」という書籍が発売された。その後、上京した当時の湧別町長から「君のお陰で勲章を貰った」との話しがあった。

6年前、勤務先の現状に嫌気がして早期退職。その後、北海道旅行を実施し、事前に事故現場に慰霊碑がある事を知っていたので向かうも、案内板はなし、通りすがりの人やガソリンスタンドの人に尋ねも分からず断念。帰宅後、湧別町役場に抗議の電話をした記憶がある。そして2年前、湧別町の郷土館を訪ねた際、案内人が「慰霊碑の案内板がないので、最近自分が設置した。でも今は、海岸の浸食防止工事中なので近づけない」との説明。

この様な経緯を経て、先月の23日午前10時ころ、思い切って慰霊碑に向かった。現在、慰霊碑は牧場内に所在するので、塀の扉の鎖を外して中に入った。慰霊碑の前に佇み、そしてオホーツク海を見回した。やっと、事件現場に立てたと…。

帰路についたところ、塀の扉のところで、老人が私の乗用車が来るのを待つている。

私「自分は、三十年前に機雷事件を本にした者です。やっと、慰霊碑を拝む事が出来ました」

老人「そうですか。あの事件は、自分が小学1年生の時に起き、親戚の中にもケガをした者もいます。でも、あの慰霊碑はおかしいですよ。亡くなった人の名前が何も書かれいない」

私「自分もそう感じました。事件の経緯も書かれいない」

老人「それに、事件現場は慰霊碑がある所ではない」私「え〜、どこですか」

老人「(指差して)あの河口付近です」

私「何故、違う場所に設置したのでしょうか」

老人「邪魔だからでしょう」

どうも、地元自治体には対応に問題があるようだ!

今回の旅行で3つの成果があった。まず、遠軽町の書店において、店主から2004年発売の「大きな光・小さな子どもたち」(北見康子著)を紹介・購入出来た事。そして、この書物によって、地元の人が「潮風の彼方に」との著書を出版している事を知った。更に昨年、NHK主催の大会に出品した北見緑陵高校放送局制作の「5.26ー湧別町機雷爆発事件」を鑑賞出来た事だ。

ところで、本年度から母校・遠軽高校では、学校設定科目「オホーツク風土研究」の授業を実施するようだ。授業では、湧別の機雷事件、囚人道路、鴻之舞金山などオホーツク管内の歴史を勉強する。遅きにと感じるが、頑張って勉強して欲しい。

最後に私の夢だが、この事件を是非とも映画化したい。想像して欲しい。あの青いオホーツク海とサロマ湖が、大きさなスクリーンに映し出される事を…。多分涙が止まらなくなるだろう。誰か動いてくれ!