遂に判明した大作家・吉村昭の療養温泉宿

吾輩は、大作家・吉村昭(1927〜2006)の熱烈なファンであることは、以前から記しているが、どうしても判明しないことが一つある。それは、吉村昭が若い時分、結核手術(昭和23年9月。手術は五時間半で、肋骨五本を切断)の後に栃木県の温泉地で療養したが、その“温泉宿"がわからないのだ。これまで、多くの書物に「栃木県の寂れた温泉宿」とか、「那須温泉」とか書いてあるが、具体的な“温泉宿"が書かれていない。

そんな中、昨日「吉村昭記念文学館」(東京・荒川区)から会員宛に、吉村昭が「療養中の那須で描いたスケッチ 昭和24年(1949)」と記されたポストカードが郵送されてきた。そこで夕方、同文学館に電話を入れ、「このスケッチはどこの温泉宿で書いたものですか」と尋ねたところ、当然のごとく「あとから調べてみます」という返事。

ところがである、夜にネットを見ていると、5月17日号の「週刊朝日」に、吉村昭が療養した“温泉宿"のことが書かれいるのだ。そこで本日、改めて同文学館に電話を入れて「週刊朝日」のことを伝えたところ、学芸員が「この記事は読みました。2009年発売の著書『七十五度目の長崎行き』(河出書房)に“旭温泉と北温泉"のことが書かれている。初出は1985年2月号の『小説現代』です」との回答。さっそく、地元図書館で「週刊朝日」の記事と、著書「七十五度目の長崎行き」の中の「北温泉と旭温泉」というエッセーを見つけたので、この二つの文章を紹介する。

連載第74回(最終回)

【文豪の湯宿】

吉村昭Χ栃木県・北温泉

“大病から生き延びた自分を見つめた宿"

終戦の前年、東京開成中学時代に肺浸潤(はいしんじゅん)に侵された吉村昭は、医者の勧めで奥那須の旭温泉で数カ月間、転地療養をした。肺の病気が再発したのは3年後。重症の結核だった。吉村は自らの判断で、1年後生存率30%の難手術「胸郭成形手術」を受けることを決断。麻酔も十分でないまま激痛に耐え、命を救われた。

昭和24年6月、今度は同じ奥那須北温泉旅館で療養することになった。山奥の、電気も通っていない鄙(ひな)びた温泉宿だ。何もすることがない、せいぜい河原を散歩するだけの自炊療養生活が始まった。

〈ひんぱんに入浴するのは体の支障になると考えていた私は、二日に一度の割で夜、露天風呂に足をむけた。晴れた夜には、驚くほど冴えた星の光が空一面に散り、山の稜線から明るい月がのぼることもある〉(「ひとすじの煙」)

療養生活は、冬に雪で宿が閉ざされる前に、下山するまで続いた。

翌年には学習院大学に復学し、文芸部員として創作に励むようになる。戦争や病気との闘いを通じて死を見つめ続けた吉村の作品が日の目を見るのは療養の9年後のことになる。

北温泉旅館(北おんせんりょかん)

栃木県那須町湯本151

電話0287-76-2008

次いで、吉村昭のエッセー「北温泉と旭温泉ー好きな宿」を紹介する。

テレビを観ている時、思わぬ映像を眼にした。奥那須北温泉の旅館がうつし出されたのだが、戦前と少しも変らず、夢を見ているような不思議な気分であった。

小学生であった昭和十年頃から、毎年夏になると奥那須で二十日ほど過すのが習わしだった。東北本線黒磯駅前からバスで那須温泉湯本まで行き、山路をたどって八幡温泉をすぎ、谷を越えて林の中に入る。二叉路を右に行くと谷あいに北温泉、左の高台にのぼると、北温泉の旅館主熊谷氏の経営する旭温泉があり、ここで夏をすごした。白樺派文人長与善郎氏が、御家族とともに避暑にきていた地ときいた。

終戦の前年、肺浸潤におかされて旭温泉に治療中、母死すの電報を山廻りの郵便屋さんから受け取った。また、終戦後、肺結核の手術をうけた後も、旭温泉ですごした。眼下に那須野ケ原が一望でき、しばしば雲海がひろがった。秋も深まって旭温泉がとざされてからは北温泉に移って、初雪をみるまで滞在した。戦前は電灯がなく行灯で、戦後は淡い電灯がともるようになった。

その後、二回ほど行っただけで足を向けていない。旭温泉はすっかり変ったときき、北温泉も同様と思っていたが、テレビの画面で当時のままであることを知った。豊富な温泉が湯槽にあふれ、数本の樋から落ちる湯を客が肩でうけている。澄んだ涼気、夜空の星の冴えも変わっていないのだろう。

再訪してみようか、と思う半面、そっと記憶の中にとどめておきたい気もしている。

という記事とエッセーを紹介したが、吾輩は以前に吉村昭の著書を「8〜9割読んだ」と書いたことから、吉村昭を研究している人からは「こんなこと知らないで、よく8〜9割の著書を読んだと言えるね」と言われそうだ。しかし、約2年前にもそれなりの文化人が「吉村昭奥鬼怒の温泉宿で療養した」と、多少具体的な温泉地を挙げて文章を書いていた。その際、栃木県には多少の土地勘があることから、奥鬼怒温泉郷の八丁の湯、加仁湯、日光沢温泉の各旅館に電話を入れたことがある。でも、やはり空振りであった。

いずれにしても、吉村昭の療養温泉宿が判明したことは、大変嬉しいことである。そして、20年前に「北温泉旅館」の湯槽にに浸かったことを思い出した。一回目は偵察を兼ねて立ち寄っただけであるが、二回目は壁に巨大な天狗のお面が壁に掲げてある湯槽に浸かった。

北温泉は、栃木県の温泉郷の中でも有名であるが、旅館前まで乗用車で行くことができない。そこで、旅館入口前の駐車場に乗用車を止め、400㍍ほど細い道を下って行くことになる。旅館の100㍍近くまで近づくと、プールのような露天風呂が見え、その大きさに驚いてしまう。そして建物は、相当古い造りで、玄関先や売店も相当狭く、階段も急であった記憶している。ということで、吾輩が抱えていた謎が、また一つ解決した。

だが、吾輩には、もう一つ判明していない謎がある。それは空海の親のことだ。30年前か、NHK教育テレビで、もう一人の大作家・司馬遼太郎がタイトル「たろうが語る」というような番組(5回シリーズ)の中で、「空海は大天才です。それは、混血であったからです」という発言だ。それ以来、父親は地方の役人であったので、母親がアイヌか、それとも朝鮮人かと考えてきた。5年前か、地元の歴史講演会で、講演者が「空海もこの付近の街道を歩いたことがある」旨の話があったので、講演会の最後に質問をした。それに対して講演者は、70人前後の参加者を前に「答えられる人いますか」と問いかけたが、誰も答えられなかった。

思い返すと、もう30年前のことであり、司馬も昔の知見で発言したとも考えられる。つまり、現在では科学の発達により、DNA鑑定でも、ゲノム(全遺伝情報)の解析でも、アイヌ琉球人も日本人も、同じ縄文人の末裔であることが証明されている。その意味で、司馬は何を根拠に「空海は混血」と発言したのかを知りたいのだ。誰か、答えられる人いますか?