ラグビー合宿の聖地・網走市

今回は、ラグビー合宿の聖地・網走市を取り上げる。網走市は1987年、地域経済の活性化策としてラグビー合宿を本格化、89年に当時は珍しかった天然芝グランド(7面)を造成したことを機に、日本代表を含む国内一線級のチームらが毎年、合宿するようになった。

5月末、ネットで北見・網走オホーツクのフリーペーパー「伝書鳩」(5月24日付け)を見たところ、網走市ラグビー合宿をテーマにした“漫画本"が完成したという。さっそく、網走市教育委員会に電話を入れたところ、40代と思われる男性が「こちらには、販売する部数がない。スポーツ庁が出版したので、そちらに連絡して欲しい」とのこと。スポーツ庁に電話を入れたところ、何やら“ネットで購入する"というので、知人に頼んで漫画本を入手した。

漫画本のタイトルは「ラグビー合宿の聖地へ〜北のスポーツ基地網走〜」(500円、60ページ)で、作画は公募で選ばれた札幌放送芸術専門学校・なつき凛という。漫画本の中身を紹介すると、

○最初の合宿は、1988年6月のソウル五輪日本代表の直前合宿。ボート、バドミントン、女子体操、陸上(長距離)の4競技の合宿。

○88年7月、法政大学ラグビー部が網走で初めて合宿。法政大学に勤務する網走出身の先生を頼り、交渉を行った結果。

○97年夏、東芝府中ラグビー部監督・向井昭吾が「ここの芝は素晴らしい」と絶賛したことで、その後、社会人チームが増加。

○15年度のスポーツ合宿実績は、実人員は1735人、延べ1万5677泊。経済効果は5億7800万円。

実は5年前の5月、友人二人を誘って北海道旅行を敢行した際、網走市の素晴らしいグランドを、国道上から多少把握した。漫画本の中でも「日本一の芝」と自慢しているが、まさしく青い芝が広々と広がっていた。また、グランドの近辺には、網走湖網走川があるので、ロケーションがいい。更に、食事が美味しい。我々一行は、昼食として、網走市呼人に所在する「松尾ジンギスカン店」に入った。店は古びていたが、ジンギスカンの味は絶品であった。また、追加の野菜として、アイヌネギ(ギョウジャニンニク)を注文したが、それが旨いことと言ったらなかった。冷凍されたアイヌネギであったが、店の女性は「ラグビー選手が合宿の時には、選手たちが食事の間に、アイヌネギを食べに来る。選手が言うには『疲労回復やスタミナがつく』と言っていた」と教えてくれた。

という訳で、素晴らしい合宿地であることは間違いないが、残念なこともある。それは、筆者の高校時代から、網走市の高校(当時は3校か)にラグビー部がないのだ。特に、網走南が丘高校は、1922年(大正11年)に旧制網走中学校として開校したので、当然のごとく“エリートスポーツ"であるラグビー部が設立されてもいいと考えるが、どうしたことか昔からラグビー部がない。そのため、合宿中の選手たちが、網走市の子供たちにラグビーの楽しさを教えても、高校の部活動でラグビーをしたい生徒は、美幌町北見市の高校に進学せざる得ない。これでは、末長く網走市ラグビーが定着するのか、心配になる。

前述の網走市教育委員会の男性と対話した際、筆者が「私の高校時代には、網走市の高校にラグビー部が存在しなかった。それ以後もラグビー部が設立されなかったのか」と尋ねたところ、同人は「そうです。指導する先生が来てくれないのです」と答えた。そこで筆者は「それは違うと思う。10年前には、常呂高校という小さな高校に、熱心な先生が赴任した。網走市が、熱心にラグビーを指導する先生を招請しないからだ」と述べたが、相手方からはこれ以上の説明はなかった。

このほか、決定的な理由として、網走市出身者の中から、ラグビーを指導する教諭が現れなかったという背景もあるかもしれない。例えば、北見北斗高校の場合、全国大会準優勝4回だけあって人材は多士済々。遠軽高校の場合には、旧制遠軽中学卒、日体大卒のOB・有働先生(昭3年生、保健体育)が、母校に赴任してラグビーを普及させたという経緯がある。その意味で、網走市出身者の中に、ラグビー好きの先生が現れなかったことは寂しいことである。

もしも今後、網走南が丘高校にラグビー部を設立するとしても、余りにも遅過ぎる。何故なら、網走南が丘高校は、20年度から1学年5クラスから1クラス減らすという。これでは、大人数でプレーするラグビー部設立は無理かもしれない。それを考えると、ラグビー環境は素晴らしいが、ラグビーに親しんだ人材を欠いたラグビー合宿地と言えるかもしれない。

今こそ「宇都宮アリーナ」の新築を!

バスケットボール男子のプロリーグ「Bリーグ」の決勝が5月27日、東京・国立代々木競技場で開催(入場者1万144人)され、栃木ブレックス川崎ブレイブサンダースを85-79で破り、初代王者に輝いた。この事実を知って、筆者は「今こそ、『宇都宮アリーナ』を建設する時だ。絶好の追い風が吹いている。この機を逃す手はない」と思った。

以前にも書いたが、筆者は15年前から数年間、栃木県のアイスホッケーチーム「日光アイスバックス」の経営に関わった。その際、栃木県の有力者に対して、「アイスバックスを強化するため、宇都宮市内に1万人規模のアリーナを建設して欲しい」旨のお願いをした。しかしながら、趣旨は理解してくれたものの、「宇都宮市に1万人の観客を呼べる競技種目があるのか」という反応が多く、賛同を得なかった。だが、栃木ブレックスのファンを見ていると、今や“夢物語が夢物語でなくなった"との感じを受けた。

「Bリーグ」初代チェアマン・川淵三郎氏は、昨年末に発売された週刊誌「東洋経済」(16.12.31)で、日本の室内競技場の現状を説明している。“なるほど"という内容であるので、その一部を引用する。

(バスケットボール会場に行って)初めに思ったのは日本にあるのは体育館で、アリーナじゃないってこと。アリーナというのは、やっぱり選手だけでなく観客のことも考えた施設で、居住性に優れ、リピーターになりたいだとか、ホームの雰囲気だとか、そういったものを感じられる所。プロは、「アリーナ」を造らないかぎり、発展するわけない。

…ポイントはアリーナ。盛岡市長が「5000人収容のアリーナを造る」と言ってくれた。沖縄は1万人のアリーナ。東京にもいずれできる。有明アリーナができれば、東京五輪がエポックメーキングになると思う。マディソン・スクエア・ガーデンを超えるようなアリーナが東京にないことのほうがおかしいんだ。

今、青山学院大学が施設を改修してBリーグのチームのホームとして使わせてくれたりしているが、今度東大もアリーナを造ってくれると。スポーツをめぐる環境は本当に変わってきたんだと思うよ。

また、川淵氏は、「Bリーグ」決勝後、報道陣の取材に応じているが、その話の内容は、

ー満員となった観衆にも触れ「(チケットが)すぐに売れ切れたと聞いている。1万五千席でも完売したと思う。やる人のための体育館はいっぱいある。見る人が非日常を体験できる画期的なアリーナをもっとつくってほしい」と訴えた。(産経新聞より)ー

ー「1万人入れば御の字じゃなく、1万五千人のアリーナをつくるのが常識だよ。今日なら1万五千人でも完売していた」と新アリーナの必要性を訴えていた。(スポーツニッポンより)ー

即ち、筆者が15年前に訴えたことを、現在、日本のスポーツ界に最も影響力のある川淵氏が、“さすが"という内容で訴えている。ある面、やっと理解してもらえる時代になったのかもしれない。そうであるならば、栃木県のバスケットボールとアイスホッケーのファンは、ともに手を携えて「宇都宮市にアリーナを」と訴えて欲しい。ファンのリーダーシップによるとこが大きいし、変化の兆しがはっきりと表れているからである。

だが現実は、栃木県が22年の国体開催を見据えて、「新スタジアム」(工期=19年9月30日、入札額=133億円)の新築。また、宇都宮市は、次世代型路面電車(LRT)の建設(事業費=383億円)という難題を抱えている。そのため、行政側から「それどころの話ではない」と言われそうだが…。

しかし、栃木県にはアリーナを建設する余地がある。それは、栃木ブレックスの本拠地「宇都宮市体育館」(1979年開館)の収容人数が2,900人。また、アイスバックスの本拠地「霧降アリーナ」は、固定席1604席、立見席392席である。さらに、栃木県体育館は、1965年オープンで、固定席は1920席であるからだ。行政側は、トップアスリートに対する最高の支援策が、アリーナ新築であることを忘れないで欲しい。その意味で、栃木県のアリーナ新築事業の可否は、栃木県の“スポーツ文化の進度"を試す試金石と思う。

アイスホッケーに関しては、栃木県は非常に重要な地域である。何故なら、宇都宮市の盛り上がりが、今後のアイスホッケー界の盛況に直結しているからだ。現状を報告すると、日本は長野五輪以来5大会連続で出場を果たせず、世界ランキングも23位と下落基調が止まらない。2020年東京五輪のバレーボール会場として、「有明アリーナ」(観客数1万五千、建設費約340億円)が建設される。このアリーナは、全てのボールゲームと、アイスホッケーやフィギュアスケートなど、冬季の大会もできる施設という。その冬季の大会が開催できる施設が、北関東の最大都市・宇都宮市にもう一つ存在しても良いと思う。何と言っても、栃木県は関東地方で、ウインター・スポーツの理解度がナンバーワンという背景があるからだ。それだけに、栃木県の責任は重いのだ。

思い返すと、宇都宮市は、羨ましい都市である。その理由は、程良い距離(約100㌔)に東京があるので、そほど努力しなくても大企業が進出する。その結果、14年度の県民一人あたりの所得は全国4位(13年度3位)。つまり、豊かな県民が多いのである。このほか、宇都宮市近辺を掘削すると、どこからも良質な温泉が湧き出てくる。そのため、宇都宮市の周辺市町村には、それはそれは立派な「公共温泉施設」が存在する。

以上、宇都宮市の現状などを説明したが、そこには“五十万都市宇都宮"に期待する部分がある。多くの地方都市は、都市計画の中で「何を目標にすべきか」「何が出来るのか」「どうあるべきか」などを模索している。そんな中で、地域的に恵まれた宇都宮市が、将来的には“模範都市"として存在感を示すと考えている。

横綱稀勢の里の出身地をどう考えるのか

横綱稀勢の里が、夏場所11日目から休場して、寂しい場所になった。そんな中、今回取り上げるのは、横綱の出身地は“どうあるべきか"というテーマである。今年1月の初場所後、稀勢の里横綱昇進が決定すると、テレビ局が本人の出身地を巡って、茨城県の牛久と龍ヶ崎の両市を、面白おかしく報道した。しかし、報道の中では、出身地は「こうあるべきだ」旨の指摘がなかった。つまり、稀勢の里の出身地は「牛久市」となっているが、最終学歴が龍ヶ崎市の「長山中学校」である以上、出身地は「龍ヶ崎市」と考えている。その点を、これから説明していきたい。

先ずは、その理由として、中卒者が多い相撲界では、中学校を卒業した自治体が出身地と考えるのが自然と思う。しかし、稀勢の里の場合、龍ヶ崎市の中学校を卒業したが、両親が牛久市に転居したので、その後は同市から通った。また、若い頃に「荻原関郷土後援会」を牛久市に設立(平成16年7月)したので、出身地を「牛久市」にしたようだ。

稀勢の里横綱昇進後、茨城県南部は近隣であるので、母校の「長山中学校」を訪ねたり、同中学校の「稀勢の里資料室」出張展示を見学した。このほか、2月18日に牛久市で開かれた稀勢の里の祝賀パレード(人出5万人)と市民栄誉贈呈式を見学した。その贈呈式では、古河市(茨城県)から来た老婆二人組が「双子の有望力士・貴源治も、境町(茨城県)の中学校を出たが、親が小山市(栃木県)に転居したので、後援会を小山市に設立し、出身地も『小山市』になった」と教えてくれた。貴源治はこの夏場所新十両に昇進した有望力士であるので、この話しを聞いた時には大変驚いた。

確かに、最近発売された月刊誌「相撲」(5月号)を見ると、貴源治は、境町の境小5年から第一中3年まで、兄の貴公俊(幕下)とともに在学している。また、月刊誌「大相撲ジャーナル」(6月号)では、バスケットボールで、「栃木・境第一中では3年の時に県大会で無敗。栃木県選抜で出場した全国大会では3位になった」と、境町が栃木県内として書いている。貴源治の出身地が小山市であるので、境町も栃木県と思ったのであろう。いずれにしても、茨城県境町に住んでいたことは間違い。

話しを2月18日の贈呈式に戻す。贈呈式終了後、左腕に「龍ヶ崎市広報」と書かれた腕章した男性と会ったので、我が輩が「龍ヶ崎市役所の人ですか。稀勢の里は、龍ヶ崎市の小中学校を卒業したのに、牛久市に出身地を取られて悔しくないですか」と尋ねたところ、その男性は「確かに、稀勢の里は2歳から14歳まで、龍ヶ崎市に住んでいたので、そう言えると思います。帰ったら、市長に伝えておきます」との返事であった。

牛久駅到着後、実家が同駅西口付近に所在するという話しを聞いたので、ついでに西口に赴いた。ところが、一向に判明しないので、駅前の書店で尋ねると、女性主人が「随分前、稀勢の里が建てた豪邸に引っ越した」との返事であった。さらに我が輩が「今日のパレード、凄い人出であった。このパレードを見た龍ヶ崎市民は、悔しい想いをしたと思う。なぜ、龍ヶ崎市ではなく、牛久市に後援会が出来たのか」と尋ねると、主人と話していた年配のお客が“人差し指と親指で丸"を作って、「聞いたところでは、稀勢の里は最初、龍ヶ崎市役所に後援会設立をお願いした。ところが、龍ヶ崎側は、わずかなカネさえも出せないということで、牛久市側にお願いしたようだ。最後はカネですよ」との話し。我が輩も、以前から薄々感じていたことなので“やっぱり"と思った。

稀勢の里の場合、出身地が牛久市でも、龍ヶ崎市でも、同じ茨城県である。しかしながら、貴源治がもしも横綱に昇進した場合には、栃木県出身になる。大関以下の力士であれば、何も目くじらを立てることはないが、横綱の場合は別である。何故なら、歴代横綱の出身地として、末永く伝えられていくからだ。その意味で、後世の相撲ファンが、誰でも納得する都道府県や自治体でなければならい。しかしながら、中卒地の自治体が全て出身地という訳ではない。例えば、元横綱北の湖の場合、当時は中学生力士が認められていたので、両国中学校を卒業している。だが、出身地は北海道という事例もあるからだ。

実は、力士の出身地を疑っているのだ。つまり、一部の力士は、後援会を財政力や人口が多い自治体に設立しているのではないか。この背景には、双方の利害が一致しているからではないか。例えば、牛久市龍ヶ崎市は、共に人口8万人であるが、牛久市常磐線に駅があり地価が高い、一方の龍ヶ崎市は、常磐線沿線ではないので地価が安い。その結果、両市間には経済格差がある。また、境町は人口二万五千人、小山市は人口十六万人で、当然のごとく経済力も財政力にも格段の差がある。言い方は悪いが、後援会員を増やせて、カネが集まる自治体に出身地をシフトしているのではないか。さらに言えば、経済力や財政力のある自治体が後援会を設立し、有望力士を“乗っ取っている"のではないか。

以上、長々と説明してきたが、即ち、横綱本人の記憶(少年時代)の中に、全く覚えていることがない自治体に出身地を置くことは“如何なものか"と考える。それを考えると、相撲協会は安易に力士の出身地変更を認めるべきではない。横綱の出身地は、それくらい重要なものだし、未来永劫“歴史"に耐えられる都道府県や自治体でなければならないと思うのだ。

新撰組の故郷・日野市の今昔物語

今年の連休は、新撰組の故郷・日野市を訪れた。最初に向かったのは、土方歳三銅像が建立されている「高幡不動尊」で、それはそれは立派な銅像であった。銅像近くで小冊子を購入(200円)したが、この中に銅像建立の経緯などが書かれているので紹介したい。

土方歳三像建立のこぼれ話―

高幡不動尊では戦前・戦後を通じる何回か新撰組隊士の慰霊法要を行って来たが、一般社会では猶、逆賊のイメージが強く新撰組受難の日々が続いていた。

戦後徐々に見直しの気運が興りつつあったが、殊に司馬遼太郎先生の「燃えよ剣」が世に出て以来、土方歳三をはじめとする新撰組の人気は急上昇をとげた。

そんな折、地元有志の間で新撰組の局長近藤勇、地元出身の副長土方歳三及び六番隊長井上源三郎銅像建立の計画がもちあがり、設計図もあがり、大方の資金の目処がついたので正式に観光協会に計画をもちこんだところ、時の市の幹部から暴力団まがいの人達の像を建てるのは文化都市日野市に応わしくないとのお達しがあり計画は沙汰止めとなってしまった。

その後、日野ロータリークラブが結成30周年を記念して土方歳三像を建立することになり平成7年秋、現在地に建立されたものである。

つまり、新撰組は、新政府軍と戦ったことで、地元では長らく人気がなく、子孫たちも目立たないように生活していたという。その意味では、戦後の民主主義が、良い面に現れた時評かもしれない。

続いて、土方の兄の6代目子孫が館長を務める「土方歳三資料館」に行った。資料館は、自宅の一部に設置され、入館料は500円であった。それにしても女性が多く、入場者の4分の3は女性客であった。やはり、土方歳三が、戦死する直前に函館で撮影した写真が影響していると思う。

次いで、日野市立の「新撰組のふるさと歴史館」を訪れた。入館料は200円で、それなりの資料が置かれていた。特に、無料て入手した小冊子4冊は、大変参考になったので、その一部を紹介したい。

文久(1863年)2月8日、募集に応じた浪士の中から236名が選ばれ、京都へ向けて中山道を上がった。その「浪士組」の出身地は、武蔵68人、上野58人、甲斐19人、下野12人、陸奥8人、常陸7人、下総・信濃・越前・播磨・肥後各5人という順に多い。

甲州道は、人足や馬の数も中山道の半分であり、交通量は少なかった。実際、加賀藩(100万石)や福井藩(32万石)などの大藩も通行し、全部で40藩以上が通行していた中山道に対し、参勤交代で甲州道を通行していたのはいずれも5万石未満の小藩のみであった。

甲州道と中山道は、諏訪で合流するが、甲州道の方がわずかに短かった。沿道の人口は中山道が多く、宿場の数(下諏訪〜江戸間)は中山道が29宿なのに対し、甲州道は45もの宿場が存在した。但し、甲州道には、一つの宿場の機能を分担しているところもあり、そうしたところを一つと数えると34宿になる。

○多摩は、江戸時代の初めに開発された土地が多い。その開発を行ったのは“草分け百姓"という戦国時代に主君を失った、かっての武士たちであった。また、八王子周辺には、主君をなくした千人の武士を集めて編成された「八王子千人同心」という組織があった。彼らは、普段は百姓身分だが、仕事の間だけは百姓身分より上の同心身分(武家奉公人に相当し、武士身分よりは下)となった。

要するに、多摩地域には、新撰組を生み出す土壌があった。先祖を武士とする家が少なくなく、武士への憧れを抱いている者が多い以上、幕府の呼び掛けに応じる若者が多数存在しても何ら不思議ではない。いずれにしても、観光資源が乏しい多摩地域が、新撰組で地域を売り出すことは素晴らしいことで、今後の盛り上がりに期待したい。

高校総体出場選手の削減に向けて

昨年の4月6日、経費削減を目的に題名「高校総体の規模は縮小すべき」という文章を作成した。そうした中で、今月発売の月刊誌「月刊陸上競技」(6月号)が、筆者の見解を補足する記事を掲載した。題名は「インターハイ地区大会『突破記録』一覧<過去3年間の“ボーダーライン最高記録>」で、全国11地区大会の結果を調査し、過去3年間で最も高水準だった「6位記録」を表にまとめたものである。各地区の記録水準を一覧表にすることで、11地区の“地域格差"が見えた。

その内容を紹介すると、やはり近畿地区の突破記録が高い。男子21種目中12種目、女子17種目中11種目(走高跳は4地区が同記録)で、突破記録が11地区中トップを占めた。次いで男子は南関東が5種目、東海と東北が各2種目でトップを占めた。女子は東海と南関東が3種目、北関東が2種目、中国が1種目でトップを占めた。

一方、突破記録が低い地区は、当然のごとく北海道と四国であった。男子は北海道が12種目、四国が5種目、北九州と南九州が各2種目を占めた。女子は北海道が10種目、南九州が5種目、四国が3種目を占めた。なお、南九州の2種目(百㍍と二百㍍)は、向風が強いために突破記録が低くなった。

という訳で、やはり北海道と四国の突破記録が低かった。その背景には、人口が少ない地域は、当然のことに生徒数も少ないので、突破記録が低くなる。それを考えると、北海道地区と四国地区のインターハイ出場資格を削減することは、何ら問題はないと思う。

今回の月刊誌が、筆者の見解を地区大会の記録面から裏付けてくれたことに対し、大変感謝している。いずれにしても、生徒数が減少している中で、インターハイの出場枠を、生徒数が多かった時代と同数(種目増加で、逆に増加している)にしていることは、許されないと思うのだ。

ところで、筆者が、この問題を提議した理由は、もう半世紀前の記憶にある。高校2年生の時、某教諭(野球部顧問)が授業中に、ある話題の中で「今年、全道大会で優勝(走り高跳び1.82㍍)した生徒はインターハイに出場するが、6位になった生徒は出場しない。あの記録では、出場しても意味がない」旨の話しがあった。そして後日、再びこの教諭が「全道大会6位の生徒は、やはりインターハイに出場する。記録が悪いからと言って、勝手に出場を辞退することは出来ないようだ」と話した。つまり、当時から全道大会4〜6位選手は、インターハイに出場しても意味がないことを、多少陸上競技界のことを知っている教諭ならば、予想できたのだ。

筆者は、その頃から月刊誌「陸上競技マガジン」を読み始めたが、まだ、その教諭が言わんとする背景を理解出来なかった。だが、その後、陸上競技の専門誌を一冊も欠かさずに購入し続けた結果、その教諭の言わんとすることが理解できた。つまり、北海道大会の4位以下でインターハイの出場権を獲得しても、予選通過どころの話しではなく、予選の中でも下位に沈む選手が多いことを知った。

最後は、半世紀にわたる“陸上競技ファン"として、北海道の陸上競技界について説明したい。北海道は、けして競技レベルが低い地域ではない。インターハイでは、毎年1〜2名の選手が優勝しており、それなりの存在感を示している。ただ、トップクラスの選手層が薄いのだ。今後の期待は、北海道から南部忠平以来のゴールド・メダリストが出ることだと思っている。

森金融庁長官の素晴らしい基調講演

前回、金融庁の森信親長官の講演内容を紹介した。その後、ネットで金融庁を見たところ、さらに別の講演内容が掲載されていた。そこで、ある友人に話したところ、「それほど素晴らしい講演内容であれば、紹介するべきだ」とのアドバイスを受け、この講演内容を紹介することにした。

この講演内容は今年4月7日、日本証券アナリスト協会が主催した「第8回国際セミナー」で行った基調講演で、題名は「日本の資産運用業界への期待」(7㌻)である。その講演録は、誰でも読めるので、日本の将来を心配している人は、是非とも読んで欲しい。それでは、その素晴らしい講演内容の一部を紹介する。

私は、ここ数年、金融機関に対し「顧客本位の業務運営」をしてくださいと一貫して申し上げてきました。企業が顧客のニーズに応える良質な商品・サービスを提供し続けることが、信頼に基づく顧客基盤を強固なものにし、供給者である企業の価値向上につながることは、金融機関のみならず、およそ全ての企業に当てはまる原則だと思います。

資産運用の分野でも、お金を預けてくれた人の資産形成に役立つ金融商品・サービスを提供し、顧客に成功体験を与え続けることが、商品・サービスの提供者たる金融機関の評価を高め、その中長期的な発展につながることは当然のことです。マイケル・ポーターは、これを「共通価値の創造」と呼びましたが、金融機関による共通価値の創造は、顧客と金融機関の価値創造に留まらず、経済や市場の発展にもつながるものと考えます。しかしながら、現実を見ると、顧客である消費者の真の利益をかえりみない、生産者の論理が横行しています。特に資産運用の世界においては、そうした傾向が顕著に見受けられます。…

本年2月の我が国における純資産上位10本の投信をみると、これらの販売手数料の平均は3.1%、信託報酬の平均は1.5%となっています。世界的な低金利の中、こうした高いコストを上回るリターンをあげることは容易ではありません。日本の家計金融資産全体の運用による増加分が、過去20年間でプラス19%と、米国のプラス132%と比べてはるかに小さいことは、こうした投信の組成・販売のやり方も一因となっているのではないでしょうか。…

毎月分配型の投信は、引き続き多く販売されていますが、毎月分配型では複利のメリットが享受できないことをお客様に理解してもらった上で投信判断していただくのが「顧客本位」ではないでしょうか。同様に、過去数年間、高い値上がり率を示している投信も人気ですが、こうした投信の販売にあたっては、高値掴みの危険性についても言及するのが「顧客本位」だと思います。さらに重要なことは、商品に係る販売手数料、信託報酬などのコストをお客様に理解していただくことです。こうしたコストについては、単にパーセンテージで示すのではなく、例えば10万円投資した場合のコストを実額で示す方が「顧客本位」だと思います。

こうした話をすると、お客様が正しいことを知れば、現在作っている商品が売れなくなり、ビジネスモデルが成り立たなくなると心配される金融機関の方がおられるかもしれません。しかし、皆さん、考えてみてください。正しい金融知識を持った顧客には売りづらい商品を作って一般顧客に売るビジネス、手数料獲得が優先され顧客の利益が軽視される結果、顧客の資産を増やすことが出来ないビジネスは、そもそも社会的に続ける価値があるものですか?こうした商品を組成し、販売している金融機関の経営者は、社員に本当に仕事のやりがいを与えることが出来ているでしょうか?また、こうしたビジネスモデルは、果たして金融機関・金融グループの中長期的な価値向上につながっているのでしょうか?

ここ数年、友人から「母親が亡くなり遺品の整理をしていると、最近購入したと思われる、お年寄りには到底不向きのハイリスクで複雑な投信が、何本も出てきた」という苦情を聞くことがよくあります。もしかすると、そうした投信を売った営業員の方は、親のところにあまり顔を見せない子供たちに代わって、お母様の話し相手になっていたのかもしれませんが、これにより子供たちの当該金融グループに対する評価はどうなったでしょうか?こうした営業は長い目で見て顧客との信頼関係を構築する観点から本当にプラスでしょうか?

客観的な数字でみても、リーマンショック後の2009年から2015年までの6年間で、我が国の銀行預金は全体で589兆円から730兆円へと140兆円増加したのに対し、銀行の窓口販売による投信残高は、同じ期間に23兆円から22兆円に微減しています。更に長いスパンで見ても、家計金融資産に占めるリスク性資産(株式・投信等)の保有割合は1990年の13.2%から、2015年には14.5%とほとんど増えていません。…

どうですか、日本の金融当局者から、これほど辛辣な証券業界の批評を聴けるとは、思いもしなかった。しかし、筆者のように長年、証券会社の営業マンと付き合ってきた者には、森長官の批判は納得出来るし、誠に的を得た指摘であると考える。その意味で、森長官には、まだまだ現在のポストで頑張って欲しいと思った次第である。

金融庁の森長官の講演内容に納得したが…

昨日の「読売新聞」に、金融庁の森信親長官の講演内容が載っていた。筆者は、それほど金融政策に詳しい訳ではないが、講演内容に納得してしまった。

例えば、家計が保有する金融資産約1800兆円の半分超が、現預金として滞留しているので、現状を打開するために金融変革を課題に挙げている。この課題は、多少金融に知識がある者には、広く知られていることである。この課題の背景として、森長官は「銀行や証券会社などが顧客に売る商品は手数料稼ぎを目的とするものが多く、顧客不在になっていないか。顧客の資産形成を助けるような商品の作り方、売り方をしていない」として、金融機関による金融商品の販売方法を批判している。つまり、日本の売れ筋の投信の販売手数料は米国の5倍以上で、何度も同じ顧客に商品を売り買いさせる「回転売買」も行われていると指摘しているのだ。

実は、筆者もお恥ずかしながら、証券会社の営業マンの口車に乗って、投信購入の8か月後に“売り買い"させられたことがある。営業マンは、それなりのテクニックを使ってくるので、“脇の甘い人"や“心の優しい人"などは、うっかり口車に乗ってしまう。

森長官の講演に戻すと、「銀行に将来性を見抜く『目利き力』がなく、融資を受けられない企業もある」、「一部地銀が、貸し出しによる利益を目指し、地元を離れて首都圏などでの融資を獲得しようとしている。この事が競争を激化させて、貸出金利の低下を招いている」と述べている。つまり、昔の銀行の預貸率は100%近くあったが、最近は預貸率が50%に達していないことを批判しているのであろう。

この講演内容を読んで、思い出すことがある。それは以前、北海道の友人が送ってくれた「北海道新聞」オホーツク版(14年4月5日付け)である。そこには、筆者の故郷に所在する「遠軽信用金庫」(預金額=2829億円、預貸率=48.6%<15年3月末時点>)のことが掲載されている。見出しは「遠軽信金ー稼ぎ頭はアパートローン」で、記事の内容を紹介すると、

遠軽信金の経営の柱の一つが、アパートやマンションの建設資金を融資する「アパートローン」だ。その融資先は大半が札幌で「地元で調達した資金を札幌で融資する」構図が定着している。

遠軽信金の13年3月期の貸出金は1337億円で、うちアパートローンが654億円と半分近くを占める。地区別では札幌が534億円と大半(81.7%)で、遠紋(3.9%)や北見(3.1%)、旭川(11.3%)などを大きく引き離す。

○札幌地区では貸出金の8割以上がアパートローンで、同地区の4支店はそれぞれ年数千万円単位の利益を上げる「稼ぎ頭」(遠山理事長)という。札幌支店の開設は1992年。札幌地区の職員数は39人。全体の16%の人員で融資残高の4割を占める効率の良さだ。

ちなみに紙面の図表によると、貸出金の地区別シェアは、地元遠紋地区が31.0%で、北見地区7.2%、旭川地区14.3%、そして札幌地区が47.5%であった。

要するに、地銀は首都圏に、道内の信金は札幌圏内に進出して、利益を出している。このような現実がある以上、森長官が「地元の中小企業に対して融資を増やせ」と訴えても、なかなか銀行の姿勢に変化は起きないと思う。つまり、国民の意識や経済の仕組みを変えないと、大きな金融変革の動きは起きないと思うのだ。